2017年穂高登山 後編
自然の中での青と緑のコントラスト。
そこに雲が入ると、生き物のように白い雲が不定形に浮遊する。
雲も、水が固体、液体、気体と変動する中の一つの形態だ。
僕らが「風」を見ることができないので、「風」を可視化させるために「水」がよき相棒になっているように見える。
「雲」は、体感でしか感じることのできず、目にも見えない「風」と「水」の動きや存在を、顕在化させているように見える。
石と人。
山と人。
光と人。
武満徹さんの「November Steps」は、最初「Water Ring」というタイトルだった。
外国人から、「Water Ringは、浴槽の水の泡を連想させてしまうよ」と言われ、タイトルを変更したらしい。 武満さんは、「水の輪」のように、東洋の音と西洋の音が、拮抗しながらも同居する世界を表現しようとしていた。それは自然そのものの在り方とも通じる。
安易に混ぜるのではなく、水と油のように混ざらないのならば、同じ場所にいかに共存できるのか、ということを東洋の音と西洋の音の世界で実践しようとしたのだ。 こうした自然の造形に美を見いだす感性が、武満さんの音楽を強く支えている。
●November Steps 1990/11/6東京文化会館 指揮:小澤征爾/新日本フィルハーモニー
植物がつくる幾何学の世界には、宇宙の幾何的な意志を感じる。宇宙の媒介者(メディア)として。 大自然の中で改めて強く感じるのは、植物性臓器としての内臓が感応しているのだろう。都市生活では忘れがちな存在として。
蝶が受粉してくれるおかげで、植物は存続している。それはミツバチの存在も同じ。
蝶やミツバチが絶滅すると、植物は性の営みが出来なくなり、絶滅する。
そうすると、草食動物、肉食動物、人類・・とすべてに連鎖する。
この巧妙な関係性は、神業としか言いようがない。
そうした巧妙な関係性には上下も優劣もないものだ。
普段は運動不足だからこそ、久しぶりのハードな登山はきつかった。
いたい、つらい、こんなとこ来るんじゃなかった、無理するんじゃなかった、、、 同時に。
すがすがしい、きもちいい、うつくしい、たのしい、うれしい、ここちいい、、
そういう相反する感情が行ったり来たり振り子のように往復して忙しい。 人間、生きているのだから、感情が生まれるのは当然のことだ。
ただ、そういうあたまの働きを超えて、頭と体の主従関係が逆転して、体全体が主として優先になってくると、表層の感情の土台となる場所に行く。
それは、細々と分化する感情が生まれる土台のような場所で、まさにお能などが扱っている場所だ。能楽師の安田登先生は「思い」の場所と言ったいた気がする。古代の「思い」の封印を解くのが、お能の神事たるゆえんであると、、、。
感情の下にある場所では、枝分かれに分化した感情はあまり重要ではなく、それは波のような一過性のものだ。波を支える海が、いのちを支える場所だが、そこは時間感覚を失ったタイムレスな場所になる。 そうしたタイムレスな場所だからこそ、過去も未来も現在もなくなり、お能という古典芸能は、そこで死者を悼むのだろう。
意識がぼんやりしながら下山し、体の疲労と共にカメラのレンズもうつらなくなってきた。そのときにうつった写真も、自分の意識を反映しているかのような画像がうつっていた。
色や光が分かれる前の、生まれたての赤ん坊が見ているような風景を、カメラも的確にとらえていたのは、不思議なことだ。自然だけではなく、モノとヒトも感応する。
また来年もさらに来年も、、、、元気である限りここに登山に来るつもりだ。