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展覧会 岡本太郎@ 東京都美術館

週末は東京へ太郎展に。

上野の場は青春でもあり、なつかしく。









太郎のエネルギーに満ちた呪術的で祭祀的な空間は、やはり他の表現者とは芸術の捉え方自体が、まるで違う。












熊本の山鹿にチブサン古墳という装飾古墳があり、ここではイメージの力が時空を歪ませているのを強く感じた。時間は場独自に流れているようで、物体が空間の時の流れを操っているかのようだった。太郎作品には古代人と似た感性が作品に埋め込まれている。まるで古墳に入り込んだようだった!








作品が空間にあるだけで、時空間が歪む。そのことへの敬意と畏怖を持った作品群。ねじまき鳥がネジを巻くように。 特に、螺旋や渦巻きの形が持つ力は、空間の時を動かすかのようだ。











5歳の息子は、太郎作品の「傷ましき腕」(1949年)を特別な作品として見ている。

最初は、雑誌の中に絵があるだけで雑誌自体に近づかず親の後ろに隠れていた。何かの物の下に雑誌が埋もれていても、そのオーラ(aura)だけで感じていたほど。

次は絵を見る度に絵が飛び出てこないかどうか、見張ってて、と言われた。

今はお気に入りとなり、切り抜いた傷ましき腕の写真をお気に入りのLEGOボックスにコラージュして貼って眺めている。パリ時代に悩んでいたときに描いた作品だと、子どもはしっかり理解している。

プリントであってもそうした情報量を受け取る感性が人間には秘められている。


今回、はじめて実物を見に行き、金縛りにあっていたが、言葉にならない一瞬の体験だっただろう。そうした体験は一生かけて自分の肉体に溶け込ませていく体験だ。


自分自身も、大学生のころにダリやピカソの実物の作品を見るためだけにスペインに旅行に行った。フィゲラスのダリ美術館、マドリードの国立ソフィア王妃芸術センターでピカソのゲルニカ。フランスのルーブル美術館でのモナリザも足を伸ばした。いまだにその体験は大切にしまわれている。

偉大な芸術家が内在化されると、悩んだり立ち止まったとき、内的対話の登場人物に彼らが必ず出席するようになるから、きっと人間の魂の問題に関わるんだろう。





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