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FORM 野村萬斎×真鍋大度


1/3の年始休みの最終日には、東京国際フォーラムにて野村萬斎さんと真鍋大度さんのコラボであるFORMを見に行った。

萬斎さんの三番叟は、本当に鬼気迫るもので、いつも次元が違う圧倒的なものを観させてくれる。 萬斎さんは、表現者としてアーティストとして、世界でもトップの人だと本当に思う。

先月はお父様である万作さんの三番叟を見たのだった。 12/19の大手町座 第20回記念公演亀井広忠プロデュース能楽舞台 三番叟@日経ホールにて。 美しく老いた人にしか実現できない舞いは、本当に可憐な花そのものであった。

世阿弥は、時分の花と、まことの花、という表現をした。 時分の花は、若い生命力みなぎる花のこと。生きている限り、本来的に誰もが持っている。 まことの花とは、花が枯れても、まだそこに残り咲いている根源的な花のこと。それは長く育んでいかないと、咲かない花。 世阿弥は、年老いて枯れたからこそ咲くまことの花を、究極の次元に置いていた。 萬斎さんの今の舞いも素晴らしいが、今後何年たっても、きっとどの瞬間を切り取ってもすべての花が美しいだろう。 →〇「時分の花」と「まことの花」(2014-02-21)(→blog吾)

真鍋大度さんのグラフィック技術はすさまじいもので、今後の発展的な進化の予感を感じさせる圧倒的なものだった。

余分なものを削り取りながら抽象化させて情報を消しながら進化してきた能や狂言の世界にとって、今回の試みはかなりチャレンジングだった。 萬斎さんの個性と、真鍋さんの個性とが、いい形で衝突しあいせめぎあっていたと思う。

個人的には、能や狂言の本質である間や空白というものが、CGでも表現できるとさらに深まるのではないかと思った。

人間の営みは、一般的に情報が過密すぎる傾向にある。 「何かをする」ということには意識が向かいやすいが、「何かをしない」という行為には、意識が向かいにくいものだ。

CGもそうだが、音楽も音を詰め込んで音楽が構成されやすい。 ただ、だからこそ武満徹さんは沈黙の音楽を追究していった。

沈黙の中に無限の音がつまっているように、沈黙の中に無限のイメージが詰まっているようなCGの世界を。真鍋さんならきっと表現してくれるはずだと思う。

世界的な天才の今後のお二人の共進化が楽しみ。 すべてが新年にふさわしいエネルギーに満ちた演目だった。 今年もいい年になりそうだ。

■武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」 『私はまず音を構築するという観念を捨てたい。 私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。 私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。 そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。』

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