ケルティック 能『鷹姫』
Bunkamuraオーチャードホールにケルティック 能『鷹姫』を見に行った。
アイルランドの詩人であるイェイツは、能の戯曲『鷹の井戸』を書いていた、というのには驚いた。
イェイツ(William Butler Yeats, 1865-1939年)は、古代ケルト神話、古代インド文化、キリスト教神秘主義、東洋文化、アイルランド民話、、、をすべて飲みこんで詩というコトバの次元で統合させようとしていた人だから、自分も深い関心を寄せていた。
生と死が重なり交わり共鳴する日本の能楽の世界にもイェイツの興味が向いたのは当然と言えば当然だろう。
日本は、死の問題を医療ではなく芸術に高めてきた国なのだから。平家物語なども同じだと思う。
それは芸能であり、唄であり、舞いであり、語りであり、日本の深い霊性の発露であった。
芸術は深く追求して行く世界。 芸能は広く拡大して行く世界。 能は芸術性と芸能性とを追求したことで今でも数百年に渡り続いた文化になったのだと思う。
ケルト文化はユーラシア大陸の左端。 日本はユーラシア大陸の右端。 二つの文化はユーラシア大陸という顔の両耳となる。
Eurasiaは、Euro-Asiaであり、EuropeとAsiaを両端で支えているのはケルト文化と日本文化だ。
宗教学者の鎌田東二先生(鎌田東二,鶴岡真弓「ケルトと日本」角川学芸出版 (2000年))によると、ケルトと日本というユーラシアの両耳が、古代の宇宙や地球の音を聞いているのだと。
キリスト教以前のヨーロッパに存在したケルト文化。 ケルト人は文字を持たず、歴史を書き記すこともなかったために文書としての記録は残っていない。その代わり、アイルランドやイギリスの文化には、文字ではない深い文化の形でその影響が残っている。
自然と共に生きたケルト人。
妖精伝説や昔話が息づくケルトの地は、古代日本とも同じ香りがする。
日本とケルトとは、深層の世界でつながっているが、そんなケルトを背景にするイェイツののケルティック 能『鷹姫』は、超満員で素晴らしい舞台だった。
梅若玄祥先生とアヌーナ ANÚNA (ケルティック・コーラス)とのコラボレーションは、幻想的で神話的な時間でとても素晴らしく、時を忘れた。時を溶かして現代と過去と未来とを行き来するのが、まさに能楽の神髄だ。
能楽は基本的に神事であり神ごとだから、能楽堂の舞台ではそうした神事から逸脱することはほとんどない。
ただ、今回のようなイェィツの現代能では、その枠組みを取り外して上演が行われるが、それがまたよかった。
自分は3階席にいたが、ケルトコーラスの方が暗闇の中ですぐ近くまでやってきて、高音の音(唄というより、音という気がした)を発し、会場は洞窟のような響きを奏でた。会場自体が母体の中のような響き。胎児のときに聞いていた音のような。
ケルティック・コーラスの高音と低音が入り混じる素晴らしいハーモニーと、能楽での低音の地響きのような謡いとが不思議な具合にマッチし、洞窟の中で音を聞いて暮らしていたかのような古代の時が会場を貫通した。
ケルト音楽というものにも興味を持った。 日本の謡曲とは全く違う進化を遂げているが、その根本的精神は繋がっているように感じたのは不思議なことだ。
技巧に走ることなく、人間の魂の声、という基本から外れることなく。叫びのような祈りのような。 全身の響きから発される共鳴音に、人体の不思議さと、自然と人間との交感のようなものを感じたのだった。
あっという間の時間で、豊かな時間を過ごした。
ANÚNA (アヌーナ) が最後にアンコールで歌った、「さくら」と「もののけ姫」は、鳥肌ものだった。
伝統を創造と共に受け継いでいくチャレンジは、今後とも応援したい。
追伸)
W・B. イエイツは、「ケルト妖精物語」という本を書いているが、その訳者であり妖精学の世界的権威である井村君江先生にも会場でお会いして挨拶できたのは最高に嬉しかった。
ウィリアム・B・イェイツの詩集
「螺旋階段(The Winding Stair)」(1929年)より。
Death William Butler Yeats
Nor dread nor hope attend A dying animal; A man awaits his end Dreading and hoping all; Many times he died, Many times rose again.
A great man in his pride Confronting murderous men Casts derision upon Supersession of breath; He knows death to the bone Man has created death.
「死」(中林孝雄訳)
死にゆく動物は 恐怖も希望も持たぬ 人間は死を前にして なお恐怖し希望する 人間は幾たびも死に 幾たびも生まれ変わるのだ
名誉を知る偉大な男は たとえ殺されようとしても 自分の息が絶えることを 恐れたりはしない そのような男は知っているのだ 人間が死を作り出したと