人生の始まりは誰もが弱く脆い
ひとつの社会では、ルールや規則が何かを基準として作られるため、その範疇から外れてしまったり、対応できなかったりする社会的な弱者が作られてしまう。すべてのものはある面から見ると強く、ある面から見ると弱い。ものごとは常に両面性をもっているが、硬い社会制度から見ると一面的な弱い存在として、社会的弱者が作られる。それは心理的、身体的な弱さとして抱えているかもしれない。
人間は誰もが圧倒的な社会的弱者として生まれてくる。
人生の始まりは、誰もが弱く脆い。 あらゆる人から守られ、大切にされ、色々なことをしてもらいながら育っていく存在として、生は始まる。
ただ、成長すると、そういうプロセスは血肉として地層の中に埋もれ、忘れてしまう。 健康と言うのは、獲得してしまうと、そこに至った遥かな行程を忘れてしまうのだ。
私たちは、自分がしてもらったことは、立場を変えて自分が誰かにすることで、再度学んでゆくのだと思う。 それは医療や福祉や教育になるのかもしれないし、育児かもしれない。
社会的に弱い立場にいる人と接していると、感じることだ。
自分がしてもらったことは、自分がすることでしか、学ぶ方法がないのだろう。
医療では、色々な面で切実に困っている人と出会うことになるが、それは自分が知らないうちに無意識のうちにあらゆる人からしてもらったことを、自分自身が再度意識化して学び直すためにもあるのだと思っている。
生の営みは、自分の根から離れると、根腐れしてしまう。
自分のためでもあることが、結果として相手のためにもなるのであれば、こんなに喜ばしいことはない。
それは医療だけではなく、芸術や音楽でも同じことだと思う。生命は、自分の根から離れると、根腐れしてしまうからだ。