泉鏡花記念館 金沢蓄音器館
金沢での旅にて、いろいろな合間に村上春樹さんの「騎士団長殺し」を読みふけった。現実と小説が入り混じるくらいに深く。
金沢では、泉鏡花記念館にも立ち寄った。 というのも、春樹作品のmagic realismには、泉鏡花の世界と極めて近いものを感じていたからだ。
鏡花は9歳の時に母親が亡くなり、終始「母なるもの」を小説世界の中で追求した人。
今回の旅の途中で泉鏡花の「高野聖」を改めて読みなおしたが、人間と動物と異界とが混然と入り混じる世界と、その言語表現の精密さに、改めて息を呑んだ。
泉鏡花記念館の隣には金沢蓄音器館があった。
エジソンの発明に始まる、そこで色々な蓄音機の名器を見て、音も聞かせてもらった。
SONYの盛田さんが寄贈した蓄音機もあり、紙でラッパが作られていたり、木製と鉄製と紙製での音の堅さや柔らかさ、あらゆる蓄音機の実験の変遷を体感した。
村上春樹作品を読んでいると音楽が溢れ出てくる。
音源は必ずLPレコードだ。
自分は春樹作品を骨の髄まで味わうため、同じ音楽を聞きながら小説世界に没入することにしている。
新作「騎士団長殺し」にこういう一節が出てくる。
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(第2部 P429) 私はブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』をターンテーブルに載せた。 ・・・ 1枚目のレコードのA面を聞き終え、レコードを裏返してB面を聞いた。ブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』はそういう風にして聴くべき音楽なのだと、私は改めて思った。 A面の「インディペンデンス・デイ」が終わったら、両手でレコードを持ってひっくり返し、B面の冒頭に注意深く針を落とす。 そして、「ハングリー・ハート」が流れだす。もしそういうことができないようなら、『ザ・リヴァー』というアルバムの価値はいったいどこにあるのだろう? ごく個人的な意見を言わせてもらえるなら、それはCDで続けざまに聴くアルバムではない。 『ラバー・ソウル』だって『ペット・サウンズ』だって同じことだ。 優れた音楽を聴くには、聴くべき様式というものがある。聴くべき姿勢というものがある。
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村上春樹作品を読みふけりながら、金沢蓄音器館に立ち寄れたことを、幸運に思う。