一条真也『儀式論』
一条真也さんの『儀式論』弘文堂 (2016/11/8)を読みました。
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<内容紹介> 「儀式とはなにか」を突き詰めた渾身の大著! 人間が人間であるために儀式はある!
結婚式、葬儀といった人生の二大儀礼から、成人式、入学式、卒業式、入社式といった通過儀礼、さらには神話や祭り、オリンピックの開閉会式から相撲まで、あらゆる儀式・儀礼についての文献を渉猟した著者が、「儀式とはなにか」をテーマ別に論究。 「人類は生存し続けるために儀式を必要とした」という壮大なスケールの仮説の下、知的でスリリングな儀式有用論を展開する。 儀式の本質に迫るとともに、現代日本を蔽う「儀式不要」の風潮が文化的危機であることを論証する600頁の書き下ろし!
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600ページもある大著で、簡単に感想を書くことを拒むような高峰だったので、結局3回読みなおした。
内容自体は、以下のように14章に渡る。
1章 儀礼と儀式 2章 神話と儀式 3章 祭祀と儀式 4章 呪術と儀式 5章 宗教と儀式 6章 芸術と儀式 7章 芸能と儀式 8章 時間と儀式 9章 空間と儀式 10章 日本と儀式 11章 世界と儀式 12章 社会と儀式 13章 家族と儀式 14章 人間と儀式
「儀式」というものが、これほど広範に捉えられるのかと、驚いた。 現代は、情報革命と多様化の波の中で、「儀式」の意義がよくわからなくなっている時代だ。
ただ、「儀式」という形は時を超えて残っている。
だからこそ、こうした本が儀式や儀礼の現代的な意義につき、改めて考え直す重要なきっかけになる。
現代では「儀式」や「神話」は悪い意味で使われることが多いことが、そのことを示唆している。
確かに、形だけを踏襲して、本質からずれてしまった「儀式」はむしろ有害なものもあるだろう。
人を縛り不自由にすることだけを目的として作用するならば。
「儀式」の本質を取り戻すため、あらゆる角度から論じているのが本書である。
文化人類学や宗教学など、膨大な参考文献から構成されていて、本を何十冊も読むくらいの勉強になった。古典的名著でタイトルだけは知っていても読んだことがない本が多い。
だから3回くらいは読まないと、自分の土壌に染み込んで感想を書くまで理解できていなかったから、なかなか感想を書きだせないでいた。
一条さんの博覧強記の読書と、その本質を的確につかんだ原文からの引用が、理解を深いものにしてくれる。
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《第1章 儀礼と儀式》では、儀礼と儀式の違いに始まり、儀礼とは何かに関する考察がある。
デュルケムは、『宗教生活の原初形態』(1912年)の中で、儀礼を「消極的儀礼」と「積極的儀礼」に分けてこう説明している。
「消極的儀礼とは聖と俗の二領域が互いに他を侵害することを防ぐための儀礼。それは常に対象を回避する。タブー(禁忌)の形式をとる。タブーという形式により、人は俗界から分離し、聖界に 接近することができる。 積極的儀礼は「聖存在」とのコミュニオン、供犠、奉献などの行為により聖なる力を高める。それと共に集団の集合的感情を強化する。すなわち、聖性高揚のための積極的な儀礼である。
消極的儀礼と積極的儀礼は表裏の関係にあり、しばしば同じ機能を果たす。 個々の儀礼がそれぞれに両面性を含む。儀礼の固有性を超えたところにその本質がある。」
こうしたデュルケムの言葉に表現されているように、儀礼の本質には、何か大いなるもの(それは神であったり自然であったりする)との通路やコミュニケーションをはかることが目的とされていると思う。
ただ、そうした回路が日常の中にないということは、ある意味ではいい面と悪い面とがあるのだろう。
自然という強大なエネルギーから我が身を防ぐために「家」を立てて住まないといけないように、自然の荒々しいエネルギーは、人間をいとも容易く破壊して飲み込んでしまう側面がある。
それは儀礼においても同様で、超越的な大いなるものとつながるということは、そのエネルギーに飲み込まれてしまう負の側面もあるのだろう。
儀礼としての道は、つながる側面と共に、守る側面も大事だ。
《第3章 祭祀と儀式》の<祭りの構造と儀礼>でも、そこと通じる面白い記述があった。
倉林正次の『儀礼文化序説』によると、Communication(意志疎通)という言葉の元になっているのは、キリスト教の祭りにある「聖体拝領(Communion)」に由来しているそうだ。
イエス・キリストの聖体を自分の体内に内在させて受肉化させるために、ワインやパンを食する儀式がある、そうした「聖体拝領」をCommunionという名前で呼ぶ。 それは、神と人とが一体になることを意味するが、そうした「聖体拝領(Communion)」の儀式からCommunicationという言葉が生まれたようだ。
Communicationは、遠い関係だからこそ、その距離を近くするために行うものだが、その語源が「神」と「人」との関係性から生まれてきているというのは興味深いことだ。 そして、それは日本の祭りで行う「直会(なおらい)」とも同じものだと言う。
まつりの語源は『神に奉(つか)へ仕(たてまつ)る』から来ていると、本居宣長が『古事記伝』(1798年)で述べている。(《第3章 祭祀と儀式》の<「まつり」とは何か>)
「たてまつる」とは、供献する・お供えすること。かみさまに御食・御酒を差し上げること。
神様と人とが、食を共にするのが「直会」で、そうして食事を共にすることが、日本版の「聖体拝領(Communion)」に通じていて、Communicationにも通じている。
食は、生命を支える営みだ。 どんな人でも毎日行っているが、そうした不断の食の営みが生命を支えているという実感がなくなってしまうこともある。 忙しい時間の中で、餌のように、ただ口の中に放り込む行為として食が行われることもあるが、体を支える食という行為を、いのちを支える営みと考える時、そこには神聖なものや大いなるもの、 生かされていることへの畏怖にも似た感情が湧き、それは「神人共食」の行為にも通じるだろう。
古代では、そうした日常的な営みこそが、あえて儀式化・儀礼化しなくても、大いなる自然とのCommunicationが数多く残っていた。だからこそ、あえて意識化することもなかった。 今、こうして意識化して再度関係性を取り戻す必要があるからこそ、儀式論のような本が必要とされているのだろ思う。
ちなみに、千利休は茶の湯の真髄をこう表現している。
「水を運び薪を取って湯をわかし、茶を立て仏に供え、人にも施し我も呑なり。 花を立て香をたきて、皆々仏祖の行ひの跡を学ぶなり」(南方録)
水を汲んで、火を起こし、お湯を沸かして、お茶を立てる。 花を立て、お香のにおいを充満させる。 そうした日常的なお茶の行為は、「仏祖の行ひの跡を学ぶなり」として行っている。
そういうことも、日常の行為の中に、いかにして僕らを支えている存在への感謝や畏怖をさりげなく取り込んで行く先人の結晶とも言えるだろう。
■ 言語としての儀礼について。
儀礼は、体全体で主体的に関与する必要がある。 身体言語としての儀礼の重要さを感じた。 つまり、いくら頭で考えていても何も変化は起きないが、身体全体で関わることで初めてその人自体が変化する。 そういう風に人間の成長や変容を促す手段としての儀礼はあったのだと思う。
ロジャー・グレンジャー『言語としての儀礼』(1974年) 「儀礼において、人は『頭で考えたことを自分の身体でやってみる』。 つまり演技の言語を用いるのだが、そこで演じられるのは、感情、思考、態度、生活の経験そのものが総て共有されるような人々の真の出会いである。
したがって儀礼は、『人間の基本的欲求の1つに対応』している。 それは、単に精神にのみ関わるものではなく、全人格を巻き込む一種の自己表現の欲求であって、 それは他人の存在によって阻害されるどころか、むしろ他人がいることによって自由に発現されることになる。 この事実は、現在よりも過去の時代に、そして他の文明において、ようやく理解され、また受け入れられてきた。 とくに古代では、儀礼は毎日の生活に力強く貢献し、『人間存在の基本的問題は、芸術的、ドラマ的な形において表現されたのである』(エーリッヒ・フロム)。 これは、聴衆参加の劇、集団的儀礼の力と強さを得たドラマであった」
医療でもプラセボ効果というものがある。 それは、本当の薬ではない偽薬であっても、薬を飲んでいる、と思うだけで身体にいい効果を及ぼす事を言う。 このプラセボ効果の重要な点は、やはり「薬を飲む」という行為や動作に意味があるのではないかと言うことだ。 それはある種の儀式に近いものだろう。 そうした身体的儀式を行うだけで、体には全体性を取り戻す力としての自然治癒力が高められて発動される。 頭や観念だけで思うよりも、実際に何か身体を使った象徴的行為として動作を行うことが重要ではないかと思う。 この辺りのことは、ジョー・マーチャントの『「病は気から」を科学する』講談社 (2016年)と言う本を読んだ時にも感じたことだ。
「ドラマ」という言葉が、「祭式における行為(所作)(ドロメノン)」から来ているというのは知らなかった。
小林道憲『芸術学事始め』より 「ハリソン(『古代芸術と祭式』)の言うように、演劇は祭式から生まれる。 祭式における行為(所作)をドロメノンと言うが、そのドロメノンからドラマが生まれたのだと、ハリソンは言う。 行為の再現が定式化され周期的に繰り返されれば、祭式となり、そこから舞台芸術も生まれた。 祝祭には誰もが参加し、そこでは誰もが演技者である共に観客である。それどころか、この祝祭には死んだ祖霊も参加し、神々も参加する。祝祭で演じられる舞踊や演劇の中で、人も踊り、祖霊も踊り、神も踊る。 これがやがて、演じるものとそれを見るものが分離することによって、演劇や音楽や絵画など、芸術が成立する。原始的祝祭の踊りは再現的な踊りだが、そこからドラマも生まれてくるのである。 芸術は、神々を祀る祭祀から始まり、祝祭から生み出されてくるのである。古代にしても、中世にしても、絵画や彫刻など、芸術作品そのものがこのような祭式から生み出されるとともに、その芸術作品自身が、神々への奉納品として、祝祭的意味をもっていた。 行為が再現され、祭式化されることによって、演劇も生まれてくる。 その意味では、模倣とその反復は創造である。 儀礼は、身体行為を介して神々に近づくシステムであり、それはいつも演劇的構造をもっている。 神々の世界へ演劇的行為によって接近することが、祝祭の本質である。祝祭そのものが、激しい音楽と舞や踊りの陶酔の中で神々の到来を祝う芸術作品である」
「演じるものとそれを見るものが分離することで芸術が成立する」というのもその通りだと思った。 芸術と分離したことで「芸術」が誕生するというのは逆説的だが本当だろう。 だからこそ、もう一度人生の中に芸術という糸を編み込んで行く必要がある。わかちがたくなるほどに。
柳田國男も、『日本の祭』という本の中で、 「日本の祭りの最も重要な一つの変わり目は何だったか。 一言でいうと見物と称する群の発生、すなわち祭の参加者の中に、信仰を共にせざる人びと、言わばただ審美的の立場から、この行事を観望する者の現れたことであろう。」 と述べていて、このことと似ていると思った。
以前は、祭りも芸術も分かちがたく人生に結びついていたのだろう。距離をとって客観視できないほどに。
ドラマや儀式という「かたち」が与えられることで、心はその「かたち」に収まっていく。 それこそがドラマや演劇や儀式の力であり、「物語」の力。 すべての儀式には、そうした「かたち」を与えることで、不安定な心(コロコロと不安定なことからココロという名前になったと聞いた覚えもある)を安定化させる働きがあるのだろう。
■ユング心理学 河合隼雄
本書ではユングや、河合隼雄先生の文章が紹介されていて、それも嬉しかった。 シンボルの重要性に関しても、ユングが追求していたテーマだ。
心理学者ユングは、
儀礼は「根源的な宗教経験の結晶化された形」であるとし、
その機能は「集合的無意識の強烈な力」から個人の意識を保護することにあると主張した。
精神科医であるユングは、「神」という超越的なものとつながることの危険性をよく承知していた。 「神」と出会うことで、混沌とした無意識世界の中から出ることができなくなる患者を数多く診ていただろうから。
儀式の心理的機能として、河合隼雄先生が『コンプレックス』(1971年)が紹介されていた。この本は、何度も読み返している程の名著だが、儀式の本質をずばりついていると思い、感動した。
「自我が、コンプレックス内の内容とエネルギーとを、自分のものとするために必要な水路づけの機能を果すものとして、儀式というものがあると、ユングは考える(「心的エネルギー」)。 その例として、ユングは未開人の行なういろいろな儀式をあげている。 たとえば、狩猟や戦闘などに出発するとき、いろいろと複雑な儀式を彼等が行なうことは、もちろん他の目的も有しているが、ひとつは、そのような儀式によって、狩猟や戦いを行なうに必要なエネルギーに水路を与え、それによって有効なエネルギーを引き出そうとしていると考えるのである。
このような『水路づけ』の機能をもつものとして、儀式を考えるとき、それはある意味では直接体験の危険性を防ぐものとも考えることができる。 われわれが何かを体験するためには、それが自我の機能を破壊するようなものであってはならない。 たとえてみれば、大量の水が一時に流出すると洪水になるだけであるが、われわれがそれを川に流しこみ、必要な水路へと導くとき、それは灌漑や発電などに利用できるのである。 ここに水路の役割は、水を防ぐものであり、水を導くものである。ここに、儀式の両面性がある。 それは体験に導くものであり、体験から身を守るものでもある」
人間のエネルギーを「水」に喩え、その「水」の流れとして儀式の本質を考えることは卓見だ。
それは、人間内部のエネルギーのことを述べながら、同時に自然や神という無尽蔵のエネルギーとの交流の事も示唆している。
現代が、多くの儀式が失われ、だからこそ儀式の本質が重要になっている時代だとすると、それは「体験に導き、同時に体験から身を守るもの」としての現代の儀式のあり方が求められている時代なのだろう。
そういう意味では面白い時代でもある。
一条真也さんは実践家として第一線のトップランナーで実践されている偉大な方でもある。
現代ならではの儀式の創造、というと難しく聞こえるが、それは儀式の本質を再発見し続けことでもある。 発見は、過去の連綿としたつながりを尊重し、その流れをつかまえることでしか発見できないものだと思う。温故知新というように、古典を尋ねることは、死者に敬意を持ち、死者の知識や経験を生者が受け取ることでもある。
ただ単に新しい儀式を仕掛けることが大事なのではなく、一条さんがこの本で問いかけているように、人間や生命や生死の本質に触れながら、現代なりの儀式や儀礼を再発見して行くことが大事なのだ。死者や歴史への敬意を込めながら。そうした姿勢にはいつも大きく勇気づけられています。
『儀式論』は600ページという大著で、 2016年11月8日に発売された本です。 あまりに重厚で壮大な本だけに、感想を安易に書けず、3回読みなおして、やっとこうして感想を書くことができた。1年くらいかけてじっくり読み込むに耐えうる本だ。
読んだ後も、こうして感想を書けた後も、充実感に満たされるすごい本だった。 自分もこういう本を一生に一冊でも書ければと、思う。
知的好奇心を刺激され、とてもとても刺激を受けた本でした。
追伸) 一条真也さんの新ハートフル・ブログでも、逆紹介いただきました! ■『儀式論』に反響続々!(2017-03-27) <補足> 一条真也さんの本は超ど級にすごい本が他に何冊もあります。
その代表作として、今回のブログで紹介した『儀式論』がその重要な金字塔としての一冊になるのは間違いありませんが、他の代表作を一つあげるとしたら、
以下のブログでも感想を書いている「唯葬論」三五館 (2015年)でしょうか。 ●一条真也「唯葬論」 (前編)(2015-08-07)(blog「吾」) ●一条真也「唯葬論」 (後編)(2015-08-14)(blog「吾」)
他にも、お薦めの本は以前のブログで感想を色々と書いています。
あわせてご覧ください。「法則の法則」三五館 (2008年)も本当に面白かったなぁー。何度も読み返しました。
●一条真也、島田裕巳「葬式に迷う日本人」(2016-11-25)(blog「吾」) ●一条真也「死を乗り越える映画ガイド」(2016-10-22)(blog「吾」) ●一条真也「和を求めて」(2015-11-21)(blog「吾」) ●一条真也「永遠葬」(2015-08-19)(blog「吾」)