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「物語」と「音楽」の力

どんな音楽であっても物語であっても、音楽を聴く人の心の中や、神話や現代の物語を読む人の心の中では、たえず再構築や再構成が行われているような気がする。どんなに深くて目に見えなくても、そうしたプロセスは自発的に進行する。

古代のように遠い過去の世界なればなるほど、その世界は現代とは深い裂け目や溝があるが、そこに橋をかけ、乗り物としての媒体になるのが「神話」を含めた物語の役割だ。

「現代の神話」を取り戻そうと、様々な表現者が命がけで取り組んでいるように思う。

 

ミルチャ・エリアーデ『神話と夢想と秘儀』(1972年) ■「神話はリアリティの構造とこの世界における存在の多様な様態を顕示する。」

■「無死つまり不死とは、ある限定的な状態、すなわちひとが自らの全存在をかけて努力し、不断に死に、かつよみがえることによって征服しようと努力する理想的な状態なのだ。」

 

ドラマや儀式という「かたち」が与えられることで、心はその「かたち」に収まっていく。それこそがドラマや演劇や儀式の力であり、「物語」の力だろう。それは一条さんの「儀式論」を読んでいて感じたこと。

村上春樹さんの新作を読んだ。

現代の声にならないか細い声を、弱さゆえに無視され潰されそうな無数の声を、物語の力で包みこんで形を与えようとしていると思う。もちろん、それは意図せず結果的なものだ。 

物語で包みこまれるだけで、人が暗闇に落ちていくことは避けられるだろう。一筋の光が見えるから。

物語が持つ可能性への理解がなければ、春樹さんの作品世界の深みは分かりにくい。

色んなレイヤーが重なった立体構造になっている。

聴いている音により、誘われる階層自体が変化するようになっている。

だからこそ、春樹作品には音楽が流れていることが大事なのだ。

神話は、そうした音楽と共に聞いていたと思う。意識をチューニングするように。

能でも謡いがその役割を果たしている。

だから、自分は深い深い物語を読むときは、必ず同じチューニングを持つ音楽に身を委ねながら、全身で読書する。

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