「ボンクリフェス2017」@東京芸術劇場
GW中は特にイベントを入れなかったが、唯一のお楽しみとして東京芸術劇場の「ボンクリフェス2017」を聴きに行った。
作曲家、藤倉大さんが主催する、現代音楽をメインとして、あらゆる要素が絶妙な配合でミックスされた素晴らしい音楽祭だった。 値段も良心的な値段で、現代音楽初心者にも間口を広げたい、という藤倉さんの気持ちが伝わってきた。
<プログラム> デヴィッド・シルヴィアン&藤倉大/Five Lines(ライブ版世界初演) The Last Days of December (ライブ版世界初演) 坂本龍一/tri (ライブ版世界初演) 武満徹/『秋庭歌一具』より 第4曲「秋庭歌」 「秋庭歌」ライブ・リミックス ブルーノ・マデルナ/ひとつの衛星のためのセレナータ 大友良英/新作 (世界初演) 坂本龍一(藤倉大編曲)/thatness and thereness (アンサンブル版世界初演) 藤倉大/フルート協奏曲 (アンサンブル版日本初演)
<出演> 藤倉大(エレクトロニクス) アンサンブル・ノマド(指揮:佐藤紀雄) 伶楽舎(雅楽アンサンブル) クレア・チェイス(フルート) ヤン・バング(エレクトロニクス) ニルス・ペッター・モルヴェル(トランペット) 小林沙羅(ソプラノ) 大友良英(ターンテーブル)
サウンドデザイン:永見竜生[Nagie]
坂本龍一さんや武満徹さんの楽曲。大友良英さんの新曲。 本当に素晴らしかった。
坂本龍一さんの「tri」は音源だけではなく、3人というTriadの形で演奏されているのを見ると、互いの間に「息」がやり取りしているのが見てとれて、音と音の間の無音の場所を「息」がつないでいるのだ、ということを体験としても感じられた。
音をつなぐ息。息をつなぐ音。 いのちをつなぐ息。息は音となり、人をつなぐ。 そうしたものを場の体験から受け取った。
武満徹さんの「秋庭歌」は、LPで擦り切れるほど聴いているが生に勝るものはなかった。 伶楽舎(Reigakusha)の方々が来られるとは驚いた。
一番目をひいたのが、音楽を奏でる前提となるそのフォーメーションだ。
フルート奏者のクレア・チェイスと対照的に、雅楽では全く動かない。微動だにしない。曼荼羅のような形が図像として乱れない。
音を鳴らす動きは最小限で、だからこそ、そこに一音一音にみなぎる集中力のようなものを感じる。そこに緊張(テンション)を感じるからこそ、倍音のレンジを主体とした音の場が、立体的な形を伴って迫ってくる。 古代の儀式的な音楽。現代の音楽が失っている儀式性を強く感じた。
聴いていて沸き起こってきたイメージがある。
そこはうっそうとした森。まだ人間が足を踏み入れていない野生の森。 そこに人間が興味本位で足を踏み入れる。 そうすると、あらゆる獣や妖精や妖怪たちが一斉に声を出し、吠える。 獣の遠吠えは、他の獣を刺激し、音を音を呼び、渦となる。 やがて音は静まる。森は静かな森となる。 そして、そこで森の葉っぱがゆらゆらと落ちる。風が吹く。 森は元あった静寂を取り戻し、曲は終わる。
勝手にこうしたイメージが湧いてきた。 雅楽で奏でられる倍音の集合体は、深い森に住む動物たち全員の泣き声のように聞こえた。
大友良英さんの「みらい」という新作もあった。 佐藤紀雄さん率いるアンサンブルノマドとの共演。 ここでもイメージが湧く。
そこは大きい川のほとり。場所は日本だ。 老齢の男性がギターを弾く。人生を思い出しかみしめるように。 別のところでは、少年がトランペットを吹く。 そこには少年が持つ未来の可能性が、示唆される。 その間には、様々なイメージの断片が走馬灯のようにつなぎあわされる。 最後、また男性のギターの音色で終わる。 これは、ギター弾きの見る夢だったのか、もしくは人生の回想だったのか、そういう余韻を残して、曲は終わった。
大友さんの楽曲は、そこに物語がある。
物語って、なんだろう。
さらに色々なイメージが湧いては浮かぶ。
その次の坂本龍一さんの「thatness and thereness」(アンサンブル版世界初演)も素晴らしかった。
場面は一転して古代の異国に連れて行かれたような印象。 ここは日本ではない。海外のようだが、どこかは分からない。地球ではないかもしれない。惑星か。 歩き疲れてうとうと眠りにつきながらも意識は覚醒している。そういう状態だ。
眠りにつく瞬間に、自分の意識はバラバラにほどけ、構造的な形を失う。 そういう意識がほどけたり、形をもったり、構造と非構造をゆらりゆらりと動いているような感覚になる。外からも、内からもメロディーが響いているかのような気がする。 ただ、そこには気品がある。上質な音の波の群れがキラキラと光を反射させながら流れていて、その大河の一滴になったような気持ちがした。 居心地がよく、気持ちいい。
そういう気分で聴いていると楽曲が終わり、慌てて拍手をした。
最後は、藤倉大さんのフルート協奏曲。 一転して、フルート奏者のクレア・チェイスは情熱的に弾く。 見たこともない楽器を、全身で情熱的に全身をくねらせながら吹く様が、ダンスホールを見ているようで素晴らしい。
雅楽とはまるで違うスタイルにも、連続的に見たことで改めて強い印象を受ける。より人間的で動物的な音楽である気がした。
それに対して雅楽は植物的だ。
フルートを尺八のような奏法で弾く場面もあり、それもとても面白い。 彼女の息が、客席まで伝わってくる。 息が息のままであるときもあれば、時に音に変換される時もあった。
時に音に変換される時もあり、息と音とが相互変換されながら、ホールに響き、観客はうっとりしていた。
本当に色々な展開があって面白かった。素晴らしい試み。
この演奏会には、写真家の齋藤陽道(はるみち)さんも連れて行った。
彼は耳が不自由なので、こうした大きい会場はどうかな、と思ったのが、彼も興味を持ったので連れて行った。
彼は、最初は退屈に感じたらしい。 舞台が遠くて音が聞こえない。振動も感じられない。つまらない、と。
ただ、伶楽舎(Reigakusha)演奏の「秋庭歌」(作曲:武満徹)を聴いた時、驚いたらしい。
皮膚感覚での振動は分からないが、頭の中にプカプカと色々なイメージが溢れるように湧いてきて、今までずっと抱えていた大きな悩みが、突然解決したのだ、と。
彼が筆談で言うには、聴覚は分からない。皮膚の振動も分からない。 でも、確実に皮膚は振動として何かを受け取っていて、頭が認識できなくても、知覚できなくても体はちゃんとその振動を受け取り、頭の深い場所にも作用しているようだ、ということだ。それは認識することはできないが、結果として何か善きものを体にもたらすものとして。
そういう話を聴けて嬉しかった。
体は、どうも環境に応じてあらゆる情報を受け取り、様々な作用を及ぼしているらしい。
だからこそ、場や空間は重要で、そうした良質な場を作り上げていた今回のコンサートは、本当に素晴らしいものだった。