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『第1回 武田宗典之会』@銀座SIX・観世能楽堂

銀座SIX内・地下3階の観世能楽堂に、『第1回 武田宗典之会』を見に行ってきた。とても充実した時間を過ごした。

最初の舞囃子「高砂」では、宗典さんの気迫が満ちていて、気迫が観客席まではみ出していた。 一挙一動に、この日を迎えるまでの張りつめられた緊張と、その緊張を一気に開放する緩和とが分かちがたく込められていた。動と静とが一体に結びついた「高砂」は圧巻だった。(自分も謡いで「高砂」を練習しているところ。)

その次の狂言「蚊相撲」も痛快だった。

蚊の精と相撲をとる、という奇想天外の話し。すごく面白くて笑った。どうしてこんな話を思いつけるのだろう。

次は、仕舞いとして、「田村」「斑女」「藤戸」。 お三方は三者三様で、若い人には若いなりの舞があり、年を増した人には円熟した深みのある舞がある。やはり、能楽は年を増すほど渋みと深みと広がりが出てくるものだと思う。小手先でごまかせない本質的なものがあぶり出されてくる。

最後は「井筒」。

「能楽図絵二百五十番」月岡耕漁

世阿弥自身が申楽談儀で「上花也」(最上級の作品である)と自賛する、夢幻能の傑作とされる演目。

井筒とは、井戸のこと。次元が異なる通路しての井戸が出てくる。村上春樹の世界を思い起こさせる。

この演目は、井戸という場所そのものが主役なのだ。それ自体が前衛的。不動の場所(トポス)を中心に、すべては展開されていく。人間の営みを井戸が見守るように。

全体的に「動かないという動き」が多いが、最後のクライマックスの舞のために、そのエネルギーを溜めているとも言える。 動きが少ない演目だからこそ、動いた時のエネルギーの落差で、動きは異常なほどダイナミックに見えるのだ。そうした動きの落差を合気道のように利用して、魂の浄化へつなげている。溜めて溜めて、我慢した我慢したからこそ、力が弾けた瞬間に世界のレイヤーも弾け飛んでいくように。

井筒全体の出来事は、ワキの夢、という体裁をとっている。

観客全員がひとつの巨大な夢を見て弔うというあり方は、夢という意識の状態の重要性を示唆していると思う。荘子やブッダが言うように、夢から醒めることは重要なことなのだ。

宗典さんの仕舞いは、天と地とがぴったりと軸があうような静謐な動きだった。井戸という場所に溶け込むように。

植物は、動物と違い、地球の中心と宇宙とをつなぐようなあり方をしている。天と地の軸が不動だ。

舞台上の井戸に立てられたすすきの植物が、能楽師の舞いと交流しているかのように、死者が主役だからこそ、異なる生物同士の生命の交流を感じた。

 

銀座シックスの中は、人々の興奮と欲望と好奇心のるつぼと化していて、それはそれとして刺激的な空間だったが、地下3階まで下りて能楽堂の空間に行くことが、何かイニシエーションの儀式のようだった。

能を見た後は、意識がぼーっとして、現実に戻ってくるのに少し時間がかかった。ワキの見る夢が、自分の意識の中へと混じり合い、沈澱していくのに少しばかりの時を必要とした。

武田宗典さんは若手ですが、スター性と実力とを兼ね備えた能楽師です。 今後がさらに楽しみです。素晴らしく余韻の残る時間を有難うございました。

能を一度も見たことがない人は、まず手始めに銀座シックスの能楽堂へでも足を運んでほしいです。

能楽の、抽象度の高い無駄のない世界観に、きっとしびれると思います。

音自体も、空間を引き裂きながら、接着させるようですごい音です。

能は合理化できない謎を多く含んでいるからこそ、その謎を蜃気楼のように追い求め、求めれば求めるほど、能の世界はさらにその深遠な世界を開示してくれるのです。

 

『井筒』 作者:世阿弥 題材:『伊勢物語』17段・23段・24段 舞台:石上(いそのかみ)の在原寺旧跡[奈良県天理市]

月の美しい夜に、旅の僧が在原寺のあたりを訪れる。 そこで、昔この近くに住んでいた在原業平とその妻(紀有常の娘)を懐かしみ、供養する。 そこへ若い女が現れる。

墓の主が業平であることを教え、業平と有常の娘の恋物語を語り始める。

幼い頃、井戸で背比べをした2人は、成人して歌を詠み交わして結ばれたのだと。

その女は、自分が在原業平とその妻(紀有常の娘)であり、「井筒の女」とも呼ばれた者だと明かし、井筒(井戸)の陰に姿を消す。

里人が現れ、業平とその妻の話を語り。井筒の女の化身を弔うよう勧める。

僧が眠りにつくと、業平の形見の衣と冠を身につけた有常の娘の霊が現れる。 霊は静かに舞を舞い、井戸の水面に映る自分の姿を見つめ、業平をしのぶ。

夜が明けるとその姿は消え、僧の夢も覚める。

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