視点はそうして交叉する
自分は、2011.3.11の後、福島に医療ボランティアで何度も足を運んだ。
医療には即効的な力があり、だからこそ急性期には必要とされた。
ただ、だからこそ、やればやるほど、医療の限界も強く感じた。
できることが分かることは、できないことが分かることでもある。 有力であることを知ることは、無力を知ることでもある。
そのとき、自分は、鎮魂をも含んだ能楽という芸能や芸術にこそ可能性を感じた。だから学びはじめた。
それは自分にとって医療行為の延長線上にあるもので、生と死とが分かちがたく繋がっている人間や生命を真摯に追求していく過程の延長にあるものだった。
先日、芸術やアートに関わっている人たちと話していた時、ふと3.11の話になった。
3.11が起きた直後に色々なイベントがキャンセルとなり、自分たちがやっていることに大きな無力感を感じたと言っていた。
むしろ、自分は即効的で即物的な医療に全力を投球していたからこそ、医療の限界と役割を知り、芸術にこそ可能性を感じていた。 だからこそ、なぜ自粛されるのかと思っていた。
人間は、体のエネルギーだけではなく、心にもエネルギーが必要で、心のエネルギーが枯渇すると、心にも飢餓が起きる。 お互いが相補的に補い合う存在だからこそ、視点はそうして交叉するのだと思う。
能を見に行くたびに、3.11の現場で見た多くの光景が浮かぶ。
亡くなった人たちから、いい社会をつくってください、と託された気がしたから。