死を想う
人は生きている限り死から逃れることはできないし、それはやがて順番に訪れるもの。
自分の番がいつくるかは誰にもわからないし、誰が先か後かもわからない。 ただ、それは何かのつながりや関係性や全体性の中で起きている。
生まれて生きていることを与えられた以上、死は忘れていても誰にも訪れるもの。
過去や歴史は、そうした亡くなった人たちの総体だし、いま生きている瞬間もそうだ。そうして時代や命は紡がれている。
親しく近い人が亡くなるのは悲しい。 この悲しさは何ものにも変えることはできない。どんなに準備をしても対応はできない。
悲しさは、喪失や欠落のようなもので、自分の中に巨大な穴が空いてしまい、その穴は何を持っても塞ぐことはできず、欠落感だけが体に残る。
生きていくことは、この欠落感を一生抱えて生きていくことなのかと、思う。
もちろん、時間とともに、様々な経験や記憶が重なることで、その穴は一時的に蓋が閉まるが、何かの拍子にその穴の存在に気づく。
穴には永遠に蓋ができないことに気づき、かなしみは波のように訪れ、やむことがない。
かなしい感情は、やるせないものだが、そういう状態の中で、自分の中で何か重要なことが起きているのかもしれないとも、思う。
大切なことは、自分の都合などで簡単に変更できないほど圧倒的な力で進行する。自分のいのちそのものが、抜本から組み換えが起きている軋みのようなものだろう。
それは、死を受け取っている感覚だ、と言っていいと思う。 生というこの世の仕組みと、死という異なる世界との仕組みが重なって結合が起きる時、人間には悲しみとしか表現できない大きな地殻変動が起きる。
そうしたかなしみは、すべての日本文化の底流に大切にされて流れ続けているものであるとも、思う。
いのちは、光のように重なることができるものだと思う。 物理法則に従えば、物質は同じ場所に重なることができないが、光は同じ場所に重なることができる。
そして、重なれば重なるほど、光り輝くことになる。強度として、重なり合うのだ。
いのちは、必ず全員に与えられているものだが、いのちは一人だけで完結するものではない。他の誰かから受け取っているものだ。おそらく、生まれてきている時点で、そうした現象は起きている。
ある一人のいのちを強く受け止めることでもいい。 複数のいのちを受け継ぐことでもいい。それは人数によらない。 量ではなく質の問題なのだ。
医療は、生きている人に対して主に行われる。医療者は献身的に医療行為を行っていると、自分は思う。 もちろん、医療者と考え方が合わない場合もあるだろう。
ただ、それは西洋医学や代替医療という方法論の違いではなく、それを使う人間の側の問題であり、いのちや生死をどう捉えているか、という使い方の問題なのだ。そこには人生観や人間力と言った総合的な力が必要とされるから。
医療において、どれだけ懸命に頑張っても、どうしようもないことも多い。 いのちの仕組みはひとそれぞれ違うから、思いがけないことも起こる。圧倒的な流れの中で、人間の計らいを超えた大きな事態が進行していることも痛感する。大きな流れが通り過ぎるのを、見守ることしかできない。
死は避けられないことがある。だからこそ、他者の死は尊重し、そこから生者が受け取ることしかできない。かなしみや欠落という強い身体的な記憶と共に。
芸術や芸能は、いのちの継承という形而上的な問題を、どのように受け取るのか、その悪戦苦闘の中で発展してきている側面もあると、自分は感じる。
個人のエゴや悦楽だけのためではなく、死を受け取る秘儀の中で、表現という目に見える形にこだわり続けながら。分かりやすい表現と分かりにくい表現との狭間で引き裂かれながら。
そうしたことは古代の宗教や儀式では秘儀として閉じられていたものだが、閉じた空間を誰にでも享受できる開かれたものとして、芸術や芸能はできてきたのだと思う。それは決して医療にはできないこと。総合的な芸術にしかできないこと。そこに希望がある。託された希望の祈りを感じる。
この生命の世界が、生や死、生者や死者との関係性が織りなされてできているのだから、決して目をそむけることができないものだ。
海老蔵さんが受け取ったこと。 誰にでも人生は一度しかない。厳しい現実だが、平等に与えれた原則でもある。
そうした個別の一回性の人生の中で、いのちを受け取る側に回ったものとして、今度はその受け取ったいのちを、いのちの本質を、与える側に回っていくのだと思う。光として。重なった光源として。
そういう人は、あらゆる世界に必ず必要なのだ。
その核を担う人となるのだろう。相応の器がないと、こぼれ落ちてしまうものだから。
なぜなら、生まれてきたこと自体が、そうしたことを深くはらんだものなのだから。 この世界は、そうしたことに支えられて、成立しているものなのだから。