「八月に想う」
先日は、「八月に想う」トークショーと称して、俳優の小木戸利光さんと共演した。
小木戸さんが単著の新刊を出され、NHKで主演もされた。どんどんと大舞台に羽ばたき始めている。小木戸さん自主企画のゲストにお声かけいただいたので、なんとか一肌脱ぎたいと思った。
NHKのドキュメンタリードラマ「あんとき、」が、長崎の原爆の話であり、福島の原発の話とも関連していたし、その日はお盆でもあった。
トークの内容も、戦争という人類の負の遺産から受け取ること、生者が死者から受けとるバトンのこと。そういう内容になった。
生の世界と死の世界と、普段は距離はあるが、お盆のときは距離が近くなる。 そして、能楽などの古典芸能は、意識状態をゆるめることで、生と死や、過去・現在・未来などの境界をなくす場を準備し、距離を縮め、生と死の関係性を更新する。
故人の思いを受け継ぐこと。受け取ること。 そこは自由意志で選択できる。 受け取ろうと決めることもできるし、受け取ることを拒否することもできる。
なぜなら、自分の機が熟していないときや、自分の器が十分な大きさに育っていないときは、受け取ることができないときもあるからだ。
ただ、人は成長して変化し続けるので、受け取れる日がきっとやってくる。
未来の自分を信頼して、今の自分が未来の自分へと託す場合も必要なのだ。
1部のトークは白熱し、お盆にふさわしい内容になったと思う。
2部のパフォーマンスでは、自分は西王母の謡曲の謡い、琴の演奏、シンギングリンの演奏で場を十分に整え、小木戸さんの全身全霊の舞いを準備した。そして、仏様もいる場の全員で受け止めた。 感動的な舞いだった。
小木戸さんの今までの苦しみや葛藤などが、すべて走馬灯のように凝縮され、長い冬を経て芽吹いてくる小さな命のようだった。
今回は、神谷町のオアシスである光明寺(宗像志功の絵も!)をお借りしたので、会場では常に仏さまが見守っていた。参加者の中の仏性が自然に出てくるような、素直で真摯な対話になったと思う。
お盆で忙しい中、光明寺を使わせていただいた松本紹圭さん、未来の住職塾事務局長の松崎さん、本当に有難うございました!
今後とも、お寺という場と協力しながら、社会や未来の役に立つことをやっていきたいと思います!!
■西田幾多郎『短歌について』(『アララギ』二十五周年特別記念号、昭和八年一月) 「我々の生命と考えられるものは、深い噴火口の底から吹き出される大なる生命の焔という如きものでなければならぬ。 詩とか歌とかいうものはかかる生命の表現ということが出来る、かかる焔の光ということができる。 物質面に突き当たった生命の飛躍が千状万態を呈する如く、生命には無限の表現がなければならない。 熹微たる暁の光も清く美しい、天を焦がす夕焼けも荘厳だ。」
■西田幾多郎『場所の自己限定としての意識作用』(『無の自覚的限定』) 「哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。 哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。」