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ヴァイオリンと笙

昨日は、慶應にて第5回 道の学校を開催。

この会は、「からだ」を一つの共通の場として立ち返り、東洋と西洋のルーツや源流をあらゆるルートでたどりながら、宗教や人種や言語を超えた共通の土台をつくる未来の場として構想している会だ。慶應の前野隆司先生、針谷さんと協力して企画している。

 

ゲストは田島和枝さん。雅楽の笙(しょう)を弾き、正倉院復元楽器・竽(う)の演奏家でもある。神主さんの神職もされている。 西洋音楽としてのゲストは本郷幸子さんに出ていただいた。以前、ドイツのオーケストラやオペラハウスでヴァイオリニストをされていて、今は上野学園大学音楽学部音楽学科の非常勤講師もされている。 お二人ともとっても尊敬している友人だ。

それぞれ30分ずつの演奏や話を聞いた。

ヴァイオリンの音色は、コトバのようだった。それは、人間の感情であったり、人間の考えでったり、時には自然のコトバにもなる。 その核にあるのはやはり「人間」という確固とした存在で、人間の喜びや悲しみ、感情の浮き沈み、そういう人間という存在を強く感じた。もちろん、聞いている自分の感情も誘発されるし、喜びや苦悩を共有する気持ちになる。

モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番を、解説を聞きながら聞いた。 本当にモーツァルトの感情が伝わってくるようだった。 色々なことがある。辛いこともある。楽しいことばかりではない。でも、前を向いて、上を向いて歩いて行こうよ、と呼びかけるような、モーツァルト自身が自分を奮い立たせるような、それでいて周りに呼びかけているような。 西洋音楽では、作曲をした個人、モーツァルトやベートーヴェン、その人となりが浮かび上がってくる。

次に、笙を聞いた。 笙での演奏スタイルは、遠くから見ると微動だにせず植物的に見える。 両手を合わせて祈っているようにも見える。

笙が天地をつなぐ樹のようでもあり、お香のにおいが立ち込めるように、笙と人の場全体からあふれるように音が出てくる。まるで仏像や弥勒菩薩像を見ているような音楽体験だ。

はじまりも終わりもない感じ。波のようにたゆたっている感じ。 脳みその中身を、天から吸引されて、脳の中の意識成分のスープが天にもちあげられるような感じになった。 目をつぶって聞いていると、あらゆるイメージが浮かぶが、そこに人間があまり浮かんでこない。作者もいない。主語がない。 風や砂、月や闇。宇宙。 時間が溶けて過去と未来がなくなり、時間軸と言う重要な物差しを喪失するような感じだった。

正倉院復元楽器の竽(う)は、はじめて見たが、笙よりさらに天へ向かっている。天を指さすように、鳥が天に飛び立つように。 笙とは違うさらに素朴な音で、見たこともない場所に、遠い惑星のような場所に連れていかれるようだった。

それぞれ姿勢にも特徴がある。 ヴァイオリンは、弦を揺らすので、演奏者の体幹やバランスが大切になる。 小手先にならないよう、全身をひとつの統一体としてまとめながら、呼吸と弦の動きとが連動しているようだった。弓と一体となった体を動かし、くねらせながら、体の動きが音へ変換されているるかのように見える。

笙では、基本的に座禅の座像で何時間も鳴らし続ける。 笙の基本は土地の浄化や鎮魂であり、自分が大木になったかのように地面に根を張り、座禅のような座像で鳴らす。 演奏家が、人間の存在を超えて仏像化していくように。

いき(呼吸)がそのまま音になり、相手のいき(息)に包まれるかのような感じになる。いきが、そのまま空気の振動となり、空間となる。こちらも思わず息が同期する。

ヴァイオリンも笙も、人間が音を出すという行為は変わらない。

人間は、息をしているし、体や内臓を動かして、生きている。

人間のいのちの活動には幅広い領域がある。見える場所も見えない場所も。 感情が主に働いている場所もあれば、感情が生まれる母胎となる奥底の場所もあれば、生きているものが永遠に見ることを許されないいのちの母胎となる最奥の場所もある。

そういう様々な場所を、音を導き手として行ったり来たり、揺らぎ続ける感じが、最高の時間だった。

田島和枝さんも、本郷幸子さんも、自分の尊敬する友人です。

一回しか訪れることのない再現できえない本当に貴重な時間を、ありがとうございました!

自分の全身が浄化されたような気分で、昨日は、深く深く、泥のように眠りました。

<お二人のHP>

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