東京ノーヴィ 芝居「どん底、」
先日、東京ノーヴィの芝居「どん底、」を見てきた。とってもよかった!
(配られた資料に、自分がブログやFacebookで書いた文章が印刷されていて、なんだか恥ずかしかった。)
→●「どん底、」でこそ光明を見る(November 14, 2017)
芝居中に、俳優の手や指、髪、そうした身体の局所の動きが舞台の背後に投影されていて、そのチャレンジングな舞台映像表現が素晴らしかった。
俳優のオーバーなリアクションだけではなく、俳優のちょっとした指の動き、まつげの動き。そんな些細な無意識の動きにこそ、真実が出る。
自分も臨床医として働いている中で、常にそうした些細な身体言語にこそ、いつも注目している。
人間は頭を使って言葉ではどうとでも嘘をつけるが、体は嘘をつけない。
そして、声のトーンも嘘をつけない。些細な身体の動きはなおさら意識で制御できない。
そうした嘘をつけない無意識の部分こそ、真実が真珠のように隠れている。
ゴーリキー作「どん底、」は、貧しいロシアの時代に、安い宿屋に集まる色々な人の交流を描く。 お能のように、場所(トポス)が主役なのだ。 宿自体が人間を見つめる定点カメラのように。
自分が東京ノーヴィの芝居でいちばん好きな点は、「ものの流れ」とも言うべき、人間模様や人間の行動の底を底流している、圧倒的な流れを実によく捉えている点だ。
アニシモフ監督がロシアの方なので、これはロシアの血なのだろうか。 ドストエフスキーの小説もそうだ。カラマーゾフの兄弟を読んでいても、小説のディテールも面白いのだが、光も闇も、清濁併せのんで生きていかざるをえない、その時代の底を流れている圧倒的な「ものの流れ」のようなものが描かれていて、それが自分の意識の流れと共鳴現象を起こす。濁流に流されるように運ばれるように読まされてしまう。 そうした物語の下部構造にある「流れ」こそを、東京ノーヴィの芝居からはいつも感じる。
俳優は時に叫ぶ、時にわめく。時に語る。 時々言葉が聞き取れないくらいのこともある。 ただ、言葉の意味がわからなくても、声を発し、動いている生身の人間が発するエネルギーに自分が巻き込まれ、全身がビリビリと共鳴するのだ。 非言語の方が情報量は多い。
芝居が、映画のような視覚の映像表現と決定的に違うのはその点だ。 生身の人間が生きて、動き、叫び、泣く。 人間が生きているだけで放たれるエネルギー。 生きた生体が発するエネルギーのようなものに巻き込まれていく感覚が、自分の基層部分を攪拌する。 自分が攪拌されると、自分の組成が上澄み液と沈殿物に分かれる。 観劇の後には自分の上澄み液だけが残っているから不思議だ。
舞台でのモノローグは、深い人間観察に基づく慈悲に満ちた言葉が溢れていた。
・・・・・ どん底にいるからこそ、見える光明がある。 真珠は浅瀬にはなく、深海に潜らないと見つからない。誰かがそういう役割を果たしている。
闇の中に、「音」という文字が入っているのは、暗闇になって初めて聞こえる「音」の重要性を指しているのだろう。 実際、古代文字の世界ではそうしたことが言われる。
神は幽暗を好んだ。 闇こそ神の住む世界である。 問は神に申す言葉である。 門は神の住むところの廟門であった。神意を尋ね、それに応える神の応答が「闇」である。
神にはことばはない。 ただそれとなき音ずれによって、その気配が察せられるのみである、と。
人と人とが分かり合う、ということは、安い共感ではない。上から下への同情でもない。
共に立っている足場をお互いが掘っていき、人間存在の底にある深い暗闇の部分を分かち合う。
弱く脆い人間存在の場所をこそ分かち合う。
共通の土台に立つことで、初めて闇を照らす光をも分かち合えるのだろうと、思った。