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岡本太郎の赤

石井匠さんとの銀座シックスでの対談は、本当に運命的なものを感じた。 というのも、自分の中で「岡本太郎」という存在がムクムクと目を覚まし、自分の体内の中に蘇生してきたからだ。

→■2018/2/9(Fri)(19:30-21:00):【トークイベント】《銀座美術夜話会―もっと展覧会を楽しむために 第7話》稲葉俊郎×石井匠 『いのちを呼びさますもの』刊行&「いのちの交歓」開催記念 芸術はいのちを呼びさます 対談:稲葉俊郎&石井匠(國學院大學研究員、岡本太郎記念館学芸員、「いのちの交歓」展企画者)@銀座 蔦屋書店 BOOK EVENT SPACE(GINZA SIX 6F)(東京都中央区銀座6丁目10-1 GINZA SIX)

幼少期、熊本の山鹿市でチブサン古墳を見た。 チブサン古墳は、古墳時代後期に造られたお墓とされる。 石には赤、白、黒の三色が、丸、三角、菱形というシンプルな図形と共に描かれている。装飾古墳の中でも極めて特異なものだ。 二つ並んだ円が女性の「乳房」に見えることから「チブサン」という名がついたと言われていたが、その真偽は定かがではない。

熊本の県立美術館に、このチブサン古墳のレプリカがあり、実物を観たくなって親にせがんだのだ。

実物を見た瞬間、自分はいま古墳時代にいる、という、ありありとした実感を身体感覚で感じたことを忘れない。場所がタイムマシンとして機能するように。

鎮魂の場であるこのチブサン古墳という巨大な謎は、自分の身体に深く食い込んで、自分自身の一部となった。

・・・・・ 中学生の時、岡本太郎の絵を初めて見た。

その瞬間、チブサン古墳の景色が同時に浮かんできたのだ。匂いまでもありありと。

なんと生々しく生命の体内の痕跡やモーションを描く人なのだろうと、一気に好きになった。

自分は岡本太郎体験は、まさに彼の絵から入ったのだ。

高校生の時、「自分の中に毒を持て」という岡本太郎の著作を知ることになる。それは岡本太郎が亡くなったころだったのかもしれない。 古本屋で、まさにその本と目があったのだ。

そして、その本に自分は感染した。

血液の中を何かが奔流した。

魂をひっかかれた。

そこから岡本太郎の激しく美しく力強い文章にも魅入られることになる。 その後、ブックオフで100円で同書を見かけたとき、

「なんでこんなところにいるんだ!」と、救済するように購入し、友人に配りまわった。

岡本太郎の絵はすべてニュートラルで、神話的で古代的だ。どの現代的な画家とも違う。岡本太郎が描かなければ、永遠に誰も描かない絵なのだ。まさにオリジナルなのだ。

太郎さんの言葉は力強く生命が溢れてはじけ飛んでいる。

両極に矛盾を抱えながら、全身をあらゆる場所にぶつけながらも前へ前へと進んで正直に生き続けている人。

そんな岡本太郎には大きな影響を受けすぎて、好きとか愛しているという情緒を通り越しているほどの存在だ。

高校生の時、熱にうなされたように読み込んでいた岡本太郎の文章、魅入られた絵、岡本太郎の生き方。すべて。 そういう生命の痕跡を、今回の対談をきっかけに思い出した。自分の中の少年が深い眠りから目覚めるように身体の中に重なってあわさって迫ってきた。

石井さんは、 「絶望を彩ること、それが芸術だ。」 岡本太郎のこの言葉により、自殺しようとするほどの状態から、踵を変えてこの世界へと帰還してきたそうだ。

死にたい、という状態は、死にたいとしか表現できないほど強く生きたい状態なのだ。

その両極に引き裂かれてしまった状態の沼から若者を救い出したのは、医療ではなく芸術であり、岡本太郎だった。

自分は石井さんのこのエピソードが好きだ。 そうした生命の深い場所を通過した出てきたものは、必ず生命あるものになる。 それは芸術でもそうだし、自分が関わっている医療でもそうだし、石井さんが関わっている考古学でもそうだろう。

ある場所を通過したものは、「質」としか表現できないものになる。ピカソの描く女性、ゴッホの描くひまわり、北斎の描く波。

 

石井さんとは同世代。

岡本太郎の背中を追いかけるのではなく、岡本太郎が見つめてていた場所を見続けながら生きてきた者同士だ。岡本太郎が指さした月を見ている者同士、何か面白いことができればと思う。

それは、太郎さんのいのちを、精神的双生児である岡本敏子さんのいのちをも、受け継ぐことだと思う。 そういうことが、いま生きているものの、役目だと思うのだ。

自分の単著『いのちを呼びさますもの』の装丁の赤は、岡本太郎の『赤』の使い方に、無意識で影響を受けていると、思う。

 

企画展「いのちの交歓-残酷なロマンティスム-」(平成30(2018)年2月25日(日))@國學院大學博物館

人間と人間以外のモノたちとの「食べる/食べられる」の関係性を、芸術家・岡本太郎は「いのちの交歓」と呼びました。

「動物と闘い、その肉を食み、人間自体が動物で、食うか食われるか、互いにイノチとイノチの間をきりぬけ、常に生命の緊張を持続させながら生きて行く。このいのちの交歓の中に、動物と人間という区別、仕切りはなかった。あの残酷なロマンティスム。動物だけではない。自然のすべて、雨も風も、海も樹木も、あらゆるも のと全体なのである。」 ( 岡本太郎『神秘日本』中央公論社、1964年)

本展では、日本神話を基底に、岡本太郎と若手芸術家たちの作品に、地球が造りだした自然物と旧石器時代以降の様々な人工物をぶつけ合わせることで、ひき裂かれた森羅万象の生と死の結い直しを図り、人間中心主義を反転させる古くて新しい生命観の提示を試みます。

 

岡本太郎『迷宮の人生』 「なぜわれわれは「迷宮」というテーマに惹かれるのか。 それはまさにわれわれが現実に、迷宮のなかに生き、耐えて、さまざまな壁にぶつかりながら、さまよっているからだ。 事実、人生、運命について見通せるものは何もない。 瞬間瞬間、進む道に疑問を不安を抱き、夢と現実がぶつかりあっている。 強烈に生きようと決意すればするほど、迷宮は渦を巻くのだ。 それは日常の痛切な実感ではないか。 迷宮の中で期待と絶望にふり回されるのは、人間だけだ。 動物は本能的に迷路を潜り抜けてしまうが、人間は意識によって、たとえ何でもないところでも出口を失い、迷う。 夢と絶望、それはいくつもいくつも重なりあって、瞬間瞬間にひらけ、また閉じ込められる。 解決したと思ったとたんに新しい混迷のなかに閉ざされる。 矛盾のなかを、手さぐりで進んでいる。 まさしくそれが人生だ。」

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