哲学する力と芸術する力
哲学って、勉強してどういう意味あるの? と思われやすいんですが、結局は「抽象化」する力を育てるため、なんですよね。原理・原則や構造や形を発見するために。
この世にはいろんなものごとと事象があります。 ぜんぶバラバラのように見える。 でも、実はそこに共通したテーマ、深い関係性が隠れていることも多い。 なぜなら、現代という時間軸の中で共通性があるからです。
それを発見するためには、それぞれの事柄を「抽象化」させて、その共通点を探ることが求められるわけです。 抽象化する能力は、人間に与えられた高度な能力だと思います。
そして、この抽象化する力は、哲学だけではなくて、芸術でも鍛えられ、育まれるのだと思います。
朝起きたとき。意識がまどろんでいるとき。 風景がぼんやりと見える。ただの色と形のドットに見える。 あの風景こそが、自分は抽象絵画の入り口だと思います。起きているときと寝ているときの間。寝起きと寝つき。1日に最低2回は通過する場所。
世間がいい、と評価している作品は、 誰かが売りたい、有名にさせたい、という意図やエゴが隠れていることがあるので、あんまり参考になりません。
それよりも、実際に実物に触れたとき(実物に触れることが大事ですね。ロスコの抽象画なんてそのいい例)、自分の何かが震え反応することがある。それこそが大事なんですよね。
そこで何がやりとりされたのだろう、と。 イメージという非言語のフィールドに、自分のどういうイメージ世界が反応しているのだろう、と。
それは自分が普段見ているイメージの世界の源泉を、再度探っていくことなんですね。
夢と同じです。
なぜ、この赤と白と黄色の配置が美しいのだろうか。 そこには「心の自然」という存在にとって、その形態やバランスに意味があるはずなのです。 心におさまりがつく。それって、どういうことなのだろう、と。
外的な目では決して見ることのできない心という抽象形態の構造や形。それは内なる目でしか見えないものなのですが、外的なイメージ世界と呼応させ響かせる形で、間接的に感じられるわけです。
日々、そういうことを意識していると、かなり手触りをもってリアルに感じられるようになります。
そうして、心という存在も常にバランスを求めているのです。
具体的な形としてのバランス。
それがあるときにはアートの中で提示されていることがある。
もしくは、自分の夢の中で。
夢という体験の中で、人は日々イメージ体験しているのですから、芸術と関係がない人なんているはずがありません。覚えているか覚えていないか、だけの違いなのです。
哲学する力と、芸術する力。
表面的な事象に惑わされず、その深層に潜む構造やパターンを発見するために、人類が生み出した重要なプロセスだと思っています。