『切られの与三』(きられのよさ)@Bunkamura シアターコクーン
『切られの与三』(きられのよさ)@Bunkamura シアターコクーンを見た。 かなり感動した。
何に自分が動かされたのか、やはりそれは『物語の力』だろう。
そして、その力を支える役者さん演出人の強靭な力だろう。
主役である「切られの与三」(中村七之助)は、元々は金持ちのボンボンのおぼっちゃん。世間知らず。 ひょんなことから、ヤクザさんのめかけ=お富さん(中村梅枝)と恋に落ちてしまう。 その後、その恋を見つかった与三は、半殺しにされ、顔にも全員にもこれみよがしに「傷」を残され、顔を見ただけでも周りが恐ろしがるほどの顔に変貌してしまう。
「切られの与三」(きられのよさ)という名前は、そこから来ている。 隠せない「傷」を顔面と全身につけられ、その隠せない「傷」と共に一生を生きていく男として。
その「切られの与三」は、少しずつやさぐれていき、悪の道に足を踏み入れていく。 人生とは、本当にこうしたちょっとしたことでバランスを崩して、闇の世界に吸い込まれていくものなのだとも思う。
ただ、それでも与三は完全には悪人になりきれない。善と悪(光と闇)の世界を行ったり来たりしながら、常にそのあわいを葛藤し続けるのだ。
とりあえず目の前にある障害物をただただ闇雲に飛び越えていくような人生になっていく。その場その場ではベストな対応をしているようでも、大きな視点で見ると、少しずつ後戻りできない場所へ足を踏み入れていく。 一度闇の世界に取り込まれて身を染やたためか、闇の吸引力によりなかなか表の世界には浮上できない。磁場そのものが狂ってしまったかのように。
殺人への葛藤を無くした男は、人を殺めてしまう。ついには島流しとなる。
それでも、人は懸命に生きようとする。
なぜだろう。 現代ではこうも絶望して自殺者が多いのに、この主人公「切られの与三」は絶望しない。
与えられた人生を、逃げ続けながらも懸命に目的もなく生きつづけようとするのだ。
何度か「傷」を消す機会は訪れるが、「傷」を受け入れて生きていくことを選択する。
人は、誰もが何らかの「傷」を抱えて生きているものだろう。 他者に隠せることもあるし、隠せないこともある。 いづれにしても、自分自身の中にある「傷」からは、時に痛みが噴出することもあるし、予想もしない方向性に自分の人生をいざなうこともある。
色々な人と出会う中で、時には裏切り、時には人情、、、色々なことがある。 ただ、裏切る人には裏切るだけの「傷」を抱えているし、人情を持つ人にもそれなりの理由がある。
自分は、そうした巨大な力、運命の力、そうした大河の一滴のように笹船のように揺れ動かされながら生きていく一人の数奇な人生に、強く感情移入をして心を揺さぶられた。
通常の世界だと、こうした人たちに共感はできない。 自分のまいた種で不倫をし、たかりや殺人をし、流罪になった島流しから脱獄した犯罪者・・・ とだけ聞けば、普通は共感できないだろう。
ただ、それこそが芝居や演劇の力なのだ。
その人にはその人の生き様がある。
そして、否応なく受けた「傷」が、その人の人生を踏み誤らせたのだとしたら、成熟した社会はそうした「傷」をともに受け止めていく必要があるのではないかと思うのだ。
「傷」は「傷」と共鳴する。個人が抱えることができない傷を、みんなの力で支える。
社会や時代が受けた「傷」は、社会や時代の構成員であるわたしたちこそが、その「傷」を恐れず立ち向かっていく。
「傷」は避けられない。
だからこそ、受けた「傷」をいやしたり、もしくは共に生きていくことができるような余裕がある社会を。 失敗をした人にも、再度チャレンジすることが与えられるような成熟した社会を。
誰もが、傷を受け、人生が転落する可能性は潜在的に抱えているのだから・・・
傷を持たない人などいない。
だからこそ、「切られの与三」の物語であり、同時にわたしたちの物語なのだ。
どう生きるのか、と。
元々は江戸時代の歌舞伎の演目(『与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)、1853年初演)を現代風にアレンジしたものだ。
初演時(1853年)の芝居絵。(画:三代目歌川豊国)
音楽も三味線ではなくピアノやコントラバスを使っていたり、Jazzのような軽快な音楽で物語を推進させていて斬新な演出だった。
(日本の物語の音楽をJazz風にアレンジするアイディアはとてもいいと思った。ただ、ピアノ音が突出しすぎる場面もあり、クラヴィコードやハープシコードのような、同時代の楽器で奏でた演出でも見てみたい。西洋や東洋を超えた世界観が浮き上がる気がした)
俳優陣の熱演も素晴らしかったし、演出の串田和美さんによる縦横無尽に舞台と観客席を使う演出は大胆にして繊細で鮮やかでわくわくする演出だった。
演出や舞台美術も、完璧すぎない余白があり、自分はその余白こそが好きだった。 あまりにもミスがない完璧な舞台設計は、逆に緊張感を誘い、こうした人情ものには感情移入ができなくなる。
不完全な人間が懸命に賢明に、「傷」を抱えながら生きていく舞台。
セリフの言い回しが5,7調なのが、和歌や音楽を聴いているようなセリフ回しで耳に心地よく、 それでいて、歌舞伎で鍛えられた所作の「型」が、舞台に強靭な力を与えていたと思う。
第一部の中休み、第二部の中休み、、、 自分は休み中にも「物語はどこへ向かうのだろう」とハラハラドキドキしてしまい、 万が一この中休みで続きが見れなくなったら死んでも死にきれない!!と、小学生の時に毎週毎週ジャンプの発売日を楽しみにしながらソワソワしていたことを思い出した。
物語は、生きものように生きて、観客の心の中に住み着いていた。
素晴らしい舞台。感動だった。
江戸時代に作られた歌舞伎という形での物語の「型」。 その「型破り」に挑戦しながらも、歌舞伎の歴史に敬意を表するかのような舞台つくり。 その「型破り」を支えるのが、役者さんたちの身体がつくる強靭な「型」の世界。
胸がいっぱいになる演目だった。
「傷」を抱えながら生きていくこと、そうしたことに強い勇気をもらえる作品です。
個人が抱える傷、社会が抱える傷、、、、いろいろなことを重ねあわせて思いを馳せてしまう舞台。
すごくお奨めです。
5月9日より31日までBunkamura シアターコクーンで上演中。 当日券や立見券も出るようですので、是非!!!
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日時:2018年5月9日(水)~5月31日(木) 会場:Bunkamuraシアターコクーン 原作:三世瀬川如皐『与話情浮名横櫛』 補綴:木ノ下裕一 演出・美術:串田和美 出演:中村七之助、中村梅枝、中村萬太郎、笹野高史、片岡亀蔵、中村扇雀 ほか
【あらすじ】 江戸の大店(おおだな)の息子・与三郎は木更津浜で美しいお富と出会い、互いに一目で恋に落ちる。しかしお富は囲われ者、逢瀬の現場を押さえられ、与三郎は顔も身体もめった斬りにされ、お富は海へ飛び込んでしまう…。 3年後、お富は溺れた自分を助けてくれた男の世話になっている。そこへ蝙蝠安と強請(ゆすり)に来たのは、刀傷を売りにする小悪党に変貌した与三郎だった。一度は夫婦になるものの、またまた引き裂かれてしまう二人。ふとした恋が運命を狂わせていく、その先は…。
http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/18_kabuki/