火と能と鬼
先日は水前寺公園内での玄宅寺さんの本堂で、仏様の御前で「医療と能楽」のトーク。定員60人をオーバーして100人近くの方々にお越しいただき感動でした。ありがとうございました。
その後は、59回も続いている金春流による薪能。
薪能の前座イベントとしても頑張りました。
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水前寺公園の中の能舞台は古風で素晴らしい。
メインの能の演目は紅葉(もみじ)狩り。 平維茂(これもち)が鬼を退治する話とされる。
ただ、この紅葉(もみじ:くれは)伝説は、長野県の戸隠、鬼無里(きなさ)、別所温泉に伝わる伝説。長野には登山でよく行くので現地での伝承を聞くと、鬼ではなく、むしろ医療や文芸や技術に秀でて、現地では崇拝される「貴女」「聖女」として扱われている。
どうも、京都の高貴な女性が、いろいろな事情で追い出され(逃げ出し?)、長野の山奥でひっそり暮らし、そうした事実が伝説への肉付けになっているのだと思う。
つまり、ある「力」を持つ存在が「鬼」というシンボルの中に重ね合わされ、集約される。
そう考えると、鬼を倒す、というシンプルな話の中にも、様々な悲しいドラマも含まれていることが分かる。そう単純な勧善懲悪の話ではないことも分かる。
鬼にも、鬼とされてしまった存在にも、鬼には鬼なりの事情があるし、鬼には親も子供も家族も故郷も思い出も愛も憎しみも慈悲も怒りも、すべてがあるのだ。
こどものとき、桃太郎の鬼退治の話を聞いても、自分は素直に喜べなかった。
なぜなら、鬼退治といっても、そこに自分が納得できる正当な理由が見出せなかったからだ。
鬼には鬼なりなりの事情があるだろう、なんで話し合いで解決できないのか、と。
そうしたことを学校の先生に質問しても唖然とされたのをよく覚えている。この子は何を言っているのだろう、と。
そうして考えると、能で扱われる題材は、そうした深い悲しみも含めた魂の鎮魂なのだと、自分は思う。
薪の炎がメラメラと燃えているのを見ると、誘導催眠のように意識がひとつひとつの火のようにほどけていく。子どもの時の記憶と今の記憶、子どもの心と今のこころ、そうしたものが混然一体となりながら、自分の過去と現在、そして未来とが感受性や記憶と共に再統合され再編成されるのだ。