「内なる天」の命
「天命」という言葉は、「外部にある天」という命に従う、大いなる流れに従う、という解釈が一般的だ。
ただ、四書五経のひとつ『中庸』の大川周明解釈によれば、元々は「内なる天」の命に従う、という意味でもあったらしい。
わたしたちの内側にある「天」とは、その「命(メイ)」とはなんだろう。
ちょっと前までは四書五経(四書:論語 孟子 大学 中庸、五経:詩経 書経 礼経 易経 春秋)が教養書で、この考えに書かれていることは共通認識として前提になっていた。
前提の知識は表に出てこないので、当時の人たちの気持ちに共感するように、読みなおしている。
「天命」は、遥か遠くにそびえる天の声を聞き、同時に自分のはるか最奥にある声を聞くこと。
神も天も、未知の何かが人間の内側にある。
ただ、内なる神も、内なる天も、言葉の発明により概念化し、外部化したことに成功したため、今度は自分と切れた存在になったのだろうか。それまでは自分の内部でつかずはなれず一体化・融合していた。
外部化したもの、外部化されたもの。失われたものが何かの不調和を生んでいるのなら、また内側へと取り戻しに行かないといけない。いづれにしてもいい面もあれば悪い面もある。
外側に広がる世界や出来事。自分の内側にある、自分自身でありながらほとんど未知の世界。
その両者 が自分という境界を境に、不思議な呼応関係にあることは、本当に不思議なことだが、人を数多く診ているとそういう事例ばかりであることにも気づく。
村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』を読み始めると、自我がとろけてなくなりそうになり、内側と外側とが踵を返すよ
うに一致する事象が目に付くようになる。
わたしたちは自分の内側のことを外側の出来事のように話し、同時に外側の出来事を自分の内側のことのように話している。
■村上春樹『ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編』 「正確に言えば、僕は君に会うためにここに来たわけじゃない。君をここから取り戻すために来たんだ」
■ドストエフスキー『カラマ ーゾフの兄弟』より 「お母さん、泣かないでよ。人生は楽園なんです。 僕らはみんな楽園にいるのにそれを知ろうとしないんですよ。 知りたいと思いさえすれば、明日にも、世界じゅうに楽園が生まれるに違いないんです」
■「楽園はわれわれひとりひとりのうちにあるのです。それはいまわたしのうちにもあるのです。」
■「隣人を積極的にたゆまず愛するように努めなさい。その愛の事業がすすむにつれて、神の存在も自分の霊魂の不死も確信されてくるでしょう」