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神田橋條治「発達障害は治りますか?」

「発達障害」という言葉がフューチャーされ、実際にそうした若い世代は多い気もする。

やはり、そこには何か時代の意味があるし、若い世代の「問題行為」は、わたしたちに問いとしての「問題」を突き付けてくる存在だから、その現代的な「問い」にこそ取り組まないといけない。

自分は現役医師でもっとも尊敬する方が二人いる。 中井久夫先生と、神田橋條治先生。 お二人とも精神科医だが、人間をみつめるまなざしは深く、それでいて優しい。 常に本質を見続けて、ぶれない。(臨床医としての医療倫理は、河合隼雄先生から多くのことを学んだ)

自分は循環器内科医で分野は違えども、困っている人をなんとかする、という医学の領域としては同じだと思っているし、循環器内科医にも精神科医のセンスが必要になると思っている(逆もまたしかり、だ)。

中井久夫先生の本も、神田橋條治先生の本も多く読んでいるが、そんな尊敬する神田橋條治先生の「発達障害は治りますか?」花風社 (2010/5/25)という対談本は、とても学ぶことが多かった。

神田橋條治先生のスタイルは、その人を「生きやすくなる」ということに主眼があり、必ずしも治療が目的になっていないところが好きなところだ。

表紙にも「治らないという考え方は、治りませんか?」と、ある。

1. 発達障害は発達する 2. 2次障害は治せる(生まれつきの障害を1次障害とすると、そこから派生したものが2次障害) 3. 誤った治療による3次障害を阻止する(医療によりつくれれた障害を3次障害と呼んでいる) 4. 治療なき診断はただのあらさがし 5. 患者の状態をすこしでもよくするのが治療者の義務 6. 当事者や家族が自分で、安価に、自宅でできる療育・養生のコツを考案するのも治療者の仕事

こうしたことを大切にしていると書かれていて、とっても共感だ。 当事者も周囲も、「未来を思い描く」ことで頑張れるし、耐えることもできる。

とも書かれていて、自分もいつも同じことを考えている。

自殺しない限り未来はあるし、どんな絶望的な状況でも、そこに必ず一条の光が差し込むことがあると知っているからこそ、困難な状況でこそ医療のプロとして力量を問われるのだ。(「ころころするからだ」(春秋社)の冒頭にも、そうしたことを書いた)

発達障害の本質は、脳にシナプスの遅れがあり、シナプスの結合ミス、というだけ。

だから、症状は千人千通りであり、ちょっとした結合ミスなのだから一般人とも連続性があるし、誰にでも関係がある、と述べる。

だからこそ、発達障害と個性には連続性がある。 晩熟、大器晩成と言われているものは、発達障害の発達像なのではないか。

「発達障害は発達する」という名言を中心にしてこの本が編まれているように、 「発達障害」はそこでとどまるのではなく、ゆるやかに発達し続けている。

それは、神田橋先生の「未来を思い描く」こととも関係している。発達しているからこそ、その未来を見する。

自分は「ころころするからだ」(春秋社)の中では、因果論に対する「目的論」として、視点を未来に向けることの重要性に触れた。

西洋医学で行われる「因果論」は、原因を求めるので視点が過去に向いやすく、「もうどうしようもない」と、考え方も悲観的になることが多い。 それに対して、「目的論」の視点を加えることで、「この病気や症状や、どこへ自分を向かわせているのだろうか」という、その目的を見据えることで、「じゃあどうすればいいのか」、と、視点が未来へとむけられる。

発達障害が増えているのは、産業革命以降の「均一化」の社会の終わりだろうか。 「均一化」に耐えられなくなった私たちは、「多様性」という花を咲かせ始めた。

 

神田橋先生の本に戻る。 症状の「ゆらぎ」が治りやすさ、であり、ゆらぐものは動きやすい。 ゆらぎあるからこそ、ゆらがない芯が見えてくる。 そうした芯を見据えると、症状の本質が見えてくるだろう。

暴力をふるう人には、布団を丸めて殴ってもらう。 その瞬間に、本人の表情や動きの中に、何かリラクゼーションや充実感が出るかどうかを見る。 暴力は、へたくそな自己治療法になっている。

殴る、という行為の中に、この人の筋肉活動が禁止された歴史があるので、筋肉活動を復活させることで問題行動はなくなる。

閉じこもりも同じで、1日1時間と決めて閉じこもればいい。そうすると、それはゆるやかな自己治療として機能し始める。

症状の中に治ろうとする力が秘められている。 だから、その症状の潜在的な可能性を見る。

問題行動の中に、その人の強みがある。 症状の中にひそんでいる能力を活用することが大事だ。

引きこもる人は孤独に耐える力がある。 引きこもることで一人になれる時間が構造化される。脳が安らぐための時間。 誰もが、安心して脳を休められる時間を必要としている。 閉じこもる人は、刺激量を減らす必要がある脳体質なので、脳を守る練習をする必要がある。

自然にできたもの、生まれたものは、本人がクリエイトしたもの。そこにこそ、その個人の脳の特性があるし、そのスキルは生きている限りずっと使える。そうして発想を逆転させてみる。

自然に苦しい時をなんとかしのいできた過去のなかに、未来に向けて役に立つ資質が現れている。それが自然治癒力へとつながる。

意思が強い人しかうつになれない 意思が強くないと頑張れないから。 意思が弱いと、うつが完成するほどには脳を酷使できない。 だから、うつになる能力があったと考えていく。

問題行動は、未熟な自己治療法であり、苦しさに対処するための行動である。

死にたくないからリストカットをする。 自殺を防ぐために自殺の真似をする必要がある。

そう考えて、自己治療の代替を探していけばいい。 そうすれば、自分の身体に対する感受性が自在性を帯びてくる。 「克服する」のではなく「活用する」

発達障害の人の怒りの閾値が低いと言われるが、むしろ記憶のフラッシュバックが多いのではないか。 フラッシュバックとは、体験の一発学習。 だから、危険なこと、危機回避(命にかかわるとき)の時に強烈な体験の一発学習が行われ、そのことがフラッシュバックにつながっている。(そのことがPTSDなどの本質かもしれない)

代替療法の重要性も述べられていた。 代替療法では、患者さんに医療の主導権が一部渡される。それが大事なことだ。医療者だけが独占するるのではなく。 ひとは、自分に役立つものを自分でやってみたい、という欲求がある。

代替療法を選ぶポイントとして、 1. 自分でデキて 2. 金がかからなくて 3. できたら身体の中に何かを入れない というものを大切にされている。

患者の治療意欲を大事にして、相手の養生心を引き出す。そこに医療者が協力する。

自分の気持ちがいい状態を探す営み、それ自体が養生である。

常に相手の未来を思いながら。 元に戻すのではなく、未来に向けての援助を行う。

神田橋先生がいつも見据えているゴールは、 「保育園のころの自分に戻りましょう」というものだ。 そのときの自分を思い出し、いま使えるものを探す。 猫は猫のように、鳥は鳥のように生きれば健康なのだ。 その人はその人のように生きれば健康になる。その原点は、保育園のような子供のころにこそある。 そして、全体の生きやすさを上げる。

 

プロの医療者であれば、困っている人をなんとかしたい、という思いに忠実に、あらゆる方法を探求して模索していく、そうした姿勢を大切にしている神田橋先生に、とっても頼もしい思いがした。

「発達障害は治りますか?」という対話形式の本は、読みやすくていい本でした。 自分も医師として学ぶこと多く、もっと勉強して、人を学び、人をもっと深く知らなければ、と思いました。

「発達障害は発達する」と考え、この人たちは大器晩成で、発達の途中なのだ、と考えれば、広い視点で現象を見ることができるようになる気がします。

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