体の叫びのようなものとして
ニュースでも本の感想でも、、、いろいろな人の感想を読んだりしていると、あまりにもひどい文章で非難している文章に出会って驚く。
思うこと。
一つ目。
何でもそうだが、当事者になると、そう簡単に批判することはできなくなる。
なぜなら、色んな葛藤や矛盾を抱えながらどんなに当事者が頑張っているか、その現場を身に染みて感じるから。
自分が医療者だから、医療の現場の大変さはよくわかる。だからそう簡単に表面的に医療のことを批判できない。いろいろな背景がそこにあるはずだ、と想像するから。
自分が本を出して書き手にもまわったから、本を書く人の大変さもわかる。だからそう簡単に誰かの本を批判することはできない。
たとえば、自分で料理をして、掃除をして、子供をみて、、、ということを一日してみると、主婦の方、家庭を守っている方の大変さが身に染みて、わかる。
たとえば、飲食店で働いてみると、いかに現場はきりきり舞いで大変か、身に染みて、わかる。
製造業、サービス業、すべて当事者視点で見てみると、そう簡単にクレームを言うことはできない。
やはり、当事者、生産者、発信者の立場に回ってみないと、相手の立場は想像だけでは分からない。
頭ではなく、体全体で学ぶ、とはそういうことだろう。
いまは色んな物事が分断化されて専門家されすぎている。だからこうしたズレや断層があらゆる場所で起きるようになった。
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自分は能を教わっている。
そうすると先生という存在がいる。
普段、何らかの教えを受けていないと人に頭を下げることがなくなり、傲慢になる。
だから、どんな人でも何か習い事をし、初心者になり、先生という存在を持つ、ということは大事だと思う。
自分はまだまだ未熟だ。
何もわかっていない。
そういうことを頭ではなく身を持って知るために、未知のことにチャレンジして、常に初心者となる。
そうすれば、当事者への敬意は、コンコンと泉のように自然に湧いてくるものだ。
思うこと。
二つ目。
悪口を書く人、言う人の文体や言葉のスタイルを注意して研究してみる。
そうすると、いかに相手の急所をつくか、そのことにたけていることに感心する。
おそらく、自分が言われたくないことを、相手に言っているのだろう。
暴力行為と同じで、悪口を言っている人は、きっとスカッと爽快な気になっているはずだ。
人をジャッジしたり裁いたりする行為は、自分が上の立場に立つので、支配欲も満足させる。
つまり、悪口は、下手な自己治療になってしまっている。
健康な人は、あまり悪口を言わない。
なぜなら、そのことがあまり現実にいい影響を与えることがないことを知っているし、そもそも、そうした言葉自体が沸いてこないからだ。
自分のバランスを保つため、相手に言葉の刃を向ける。まずい自己治療として。
自分が言われたくない急所をよく知っているからこそ(自分がそうしたことをされた被害者だからこそ)、相手の急所へと狙いを絞って迷わずかみつくことができる。
加害者となる人は、たいてい過去の被害者でもある。その辺りは裏表の構造になっている。
ただ、その因果の鎖はどこかで誰かが断ち切らないといけない。
相手への言葉の刃は、自分を切り裂く。
なぜなら、相手への悪口、そこでわき起こる自分の中の感情に対して、
自分の脳みそは他者に向けられているのか自分に向けられているのか判別できず、すべて自分に対して作用しているように判断していると思うからだ。
相手への悪口や汚くののしる言葉。
情報化社会になって、個人に抑えられていたものがドット溢れるようになった。
ただ、
そこに込められた呪詛のような言葉にあまり影響されず、冷静に観察してみると、いろいろと発見もあるものだ。
ああ、こうして人と人とは急所にかみつけあい、傷つけあうことで、関係性を作っているのだな、と。
ほんとうは関係性をつくりたいのだけど、そのやり方がどこかで間違って学習したのではないかな、と。
その人の内側で停滞して腐敗しかけている水の流れを、どこかに流そうと、放出しようと探しているのだな、と。
人は、日々学ぶことで人間になっていく。
すべては学習が基盤にある。
いろいろなものは、体の叫びのようなものだ。
多くの個人がキリキリと痛みを感じている。
体がどこにも行き場がなく、キリキリと叫んでいる。
その毒出しが分からない。解毒方法が分からない。自己治療はどうすればいいかわからない・・・。
体の歪みが複雑な経路をたどって、表に顔を出す。
だからこそ、自分は医療者としてやるべきことが多いことを感じてもいる。
そして、芸術にも大きな役割があると思っている。
芸術も医療も、失われたものをもう一度取り戻しに行かないといけない。