美しい地球 秋谷にて
昨日は未来会議の第11回目として、神奈川県横須賀市、三浦半島にある秋谷での会。葉山の隣にあり、本当に素敵な場所だった。こんなとこに住みたい。
スタジオ・アトリエ「秋谷四季」は、写真家の広田行正さんと、歳時記研究家の広田千悦子さんが持たれている場所で、しつらえが丁寧にされていて、空間が凛としていて、時空がねじれるように昔話の空間に来たような感じであった。
この未来会議のイベントでは、まず黙る、沈黙する、受け取る、そういう閉じる時間を経て、開く時間を設けることを常としている。 まず、沈黙し、他者との交通を閉じながら、感覚だけを外に開いてインプットの時間として歩く。 その後、他者との交通を開き、インプットで得たものをアウトプットする。 歩く瞑想にも、そうした目的を持って。
すると、自分という通路を介して、同じ景色が違う体験として、別の姿を現すように立ち現われてくるものだ。
その後、秋谷海岸に。 歩いていると、潮(塩、汐)の香りがしてきて、視覚よりも嗅覚がまず最初に反応する。
砂浜はゴミがすくなくて、とてもきれい。普段から、いかに地元の方々が愛情を持って手入れしているか、伝わってくる。
東京駅から1時間で逗子まで来た。そこからバスで移動して秋谷海岸に行けるが、こんなあっという間に太平洋につながるのかと、驚いた。
裸足で砂を踏みしめて感じること。
永遠のように思える波の反復運動が、硬い石をマイクロビーズのように変形、加工させて、柔らかくそして硬い、砂という形態にまで行きついたのだ、ということ。 足裏の触感に、水や波の手触りが同時に伝わってくるようで。
あらためて、外で裸足になることが少なくなったと思う。 自分は小学生のころ、裸足運動という名目で裸足で通学していた。それは学校の先生からの提案だったかもしれない。 ただ、コンクリートは熱いので、田んぼや草の上を経由しながら・・・・。
コンクリートはやはり靴と親和性があるし、土や砂は裸足と親和性がある。 分断しながらつながるか、融和的につながるか、つながり方にも色々なものがある。
水面の上に、光の粒子が散らばり、砂の上にも散らばる。 光の波動は、水を介して顕在化する。 光がすくいとれそうな気さえする。触感すらも動く。
水は、日常に溢れている光の世界を、見えない世界から見える世界へと顕在化させ、同時に消失させる変換装置でもある。
川を歩く、海に行き、アトリエに戻る。
夕暮れのスタジオ・アトリエ「秋谷四季」には、夕焼けがきれいに差し込み、太陽の巡りと時の満ち欠けとが由来を同じにしていることを、空間として感じられるものだった。
外に行くと、空が割れていた。 そして、数十万年前から日本大陸にそびえる富士山が、見えた。
夕焼けはなんとも言えず美しく、宇宙のドラマを見ているようで。 色は刻々と変化して、瞬きするだけでも色はすでに移り変わっている。 この世に存在するあらゆる色を、日々わたしたちに改めて確認するかのように。
夕焼けでは、富士山はより一層、富士山であることを主張し、水は水であることを、波は波であることを、空気は空気であることを、ひとつの石も、よりいっそう石である存在を競い合うように主張していた。 わたしたちはここにいるんだ!と、誇り高い存在を、高らかに歌い上げ、合唱して宣言するように。
日が昇り、一日が始まる。
日が沈み、一日が終わる。
月が満ちては欠けて、月の円弧が完成されて、一月は過ぎる。
この膨大な蓄積はデータベースとしてこの自然界に蓄積される。
画家の絵に画家の人生がすべて込められていて、鑑賞者がその蓄積を読み取ることで関係性の輪は循環する。
自然にも自然の生命がすべて込められている。
わたしたちが受け取り、読み取ることで、自然の輪はつながる。
自然界の存在物の中で、「自然の輪」から外れようとしているのは、おそらく人間だけだろう。
人間が、「自然の輪」・「生命の輪」を完成させる、最後のピースなのだ。