いのちはつながり続ける
先日は名古屋市北区医師会のみなさまにお声かけいただき、在宅医療講演会とそて「在宅医療の過去・現在・未来 ‐日本人の死生観」という話をしてきた。
日本における死の場所がいかに急速に変遷したか、病院の歴史を見るといかに突然病院の形だけを急いで作ったか、古代日本や沖縄やアイヌの人々の死生観とは、仏教の日本受容の歴史から見る死への向き合い方、柳田國男が民俗学で発見した死や生まれ変わりの話、、、、と、延々と死の哲学、死の神話の話をした。
死というものにネガティブなレッテルを張っているとしたら、そのレッテルを一度ひきはがし、死の意味を再発見する場にしたいと思った。
というのも、私たち生きとし生きるものは、生と死という矛盾を抱え、その矛盾から発される緊張を抱えている。だからこそ、その張力のようなエネルギーが推進力となり、生命は生と死を抱えながら生きている。うまく伝わっただろうか。
出張の時くらいしか映画に行く時間がないと思い、Queenの映画「ボヘミアンラプソディ」を見に行こうと思ったら、栄も名古屋駅もすべて満員!まいった!!最近、レコード屋に行ってもQueenのレコードだけすっからかんなのは、フレディー・マーキュリーの魂を、時代が必要としているからだろう。映画を観れなかったのは残念とも言えるが、それだけQueen旋風が日本を覆いつくしているのは、正直嬉しい。若い人でQueenの熱量を聞いたことがない人にこそ聞いてほしい。そもそも、Queenというバンド名自体がかっこいい。
ただ。
映画を観れなかったおかげで、SWITCHインタビュー 達人達(たち) で「横尾忠則(美術家)×瀬古利彦(元マラソン選手)」が観れたのは、天の采配だった!
時代の何万歩も先を行き、われわれの不安定な意識を強く先導して導いてくれている横尾忠則という巨大な存在を、若い人にも感じてほしい。
横尾さんは、死と生とが波のように重なり合う生命の根源の領域で、天界から芸術のミューズに愛される続けるように、芸術のミューズと相思相愛で芸術の世界で遊び続けている偉大な方。
横尾さんのすべてを達観した慈愛に満ちた高僧のようなあり方、現世という、あの世にとっての鏡の世界を仙人のように遊ぶ境地、82歳という年齢を超越したかっこよさ、すべてが最高だった。
横尾さんが絵筆を持つとすべてが世界一の作品になるように、発する言葉もすべてが名言になってしまう。
自分も、2017年3月11日のSWITCHインタビュー達人達に、尊敬する大友良英さんと出させていただいたが(同じ番組に出ただけで光栄だ)、その時に映った引っ越し前の部屋は、いま見返しても横尾さんだらけだ。 手前には横尾さんのポスター、右手には夢日記。奥の壁には、横尾忠則全作品に、横尾さんの歌麿という版画・・・など。
横尾作品からは、この世をも包み込んだ巨大な空間のような場所から、風のような力が常にふきつけてきて、希望をいつもいただく。こんなにも芸術の世界が奥深いのだ、という世界の深さのことを常に感じさせてくれる。
SWITCHインタビュー 達人達「大友良英×稲葉俊郎」の回を久々に見直した(2017.3.11)。
とってもいい番組だった(おかげさまで書籍化もされました。「見えないものに、耳をすます ―音楽と医療の対話」(アノニマ・スタジオ))。
その放映のときに、自分が2歳弱のとき写真が使われた。TVに映った過去の自分の洋服を見たことで、自分の両親も当時の服を大切に保存していたことを思い出し、今、1歳半になる自分の息子がその服を着ている。
服も、着る相手を40年ぶりに迎えたことで、服も魂を受胎して蘇生した。とっても似合ってる!!
息子は父方のひいおじさんの名前と同じで、方のおじいさんと誕生日が同じで、祖先が魂を若くして生まれ変わっていると考えている。
子どもは常に祖先である。未来と過去とは、常に永遠の戯れをしているようなものだ。
自分が子供の時、何度も死ぬ目にあいながら偶然にも生き延びることができた。そのおかげで、こうして次の世代に何かが伝わった。そう考えると、生きているだけで、すでに多くの人のいのちを背負って、代表者として生きていることを強く実感する。だからこそ、すでに自分の一人だけの人生ではなく、わたしの人生はすでにわたしたちの人生なのだ。
生きていること自体の中に、誰にも強い使命の碑が、モノリスのように埋め込まれていると感じざるを得ない。あとはそのモノリスを、考古学の発掘作業のように掘り起こし、記憶をたどるように思い出しながら解読作業に取り掛かるだけだ。