「HANAGO-花子-」@セルリアンタワー能楽堂(演出・振付:森山開次)
セルリアンタワー能楽堂に、
伝統と創造シリーズ vol.10「HANAGO-花子-」(演出・振付|森山開次 、出演|酒井はな、津村禮次郎、森山開次)
を見に行ってきた。素晴らしい作品だった。
このシリーズは過去に何度も見に行っている。もう10回目なのか。。。
渋谷のセルリアンタワー能楽堂は、特定の流派の能楽堂ではないのでかなり先進的で実験的な舞台が開催される。
「渋谷能」でも五流派勢揃いの画期的な能が開催されるし、今回の「伝統と創造シリーズ」も能の世界にコンテンポラリーダンスや音楽とがかけ合わせていく、新作能とはまた違う斬新な企画だ。
今回は森山開次さんによる演出・振付で楽しみだった。
能の大切なところ、能のいちばん豊かで豊穣なところを、現代性のある身体表現で解釈されていて、とても素晴らしい舞台だった。
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今回の作品は、能の作品「班女」(はんじょ)と「隅田川」から着想を得ている。
そもそも、この「HANAGO-花子-」というタイトルはどこから来たのか?
世阿弥作の能「班女」(はんじょ)の主人公の名前「花子」に由来している。
この「花子」は、狂女、つまり狂ってしまった悲劇の女性でもある。
遊女である花子は、身分違いの恋をして、吉田の少将と愛の契りを交わす。再会を約束して別れた二人。その後の花子は吉田の少将のことばかり考えてしまう。心もそぞろで、遊女としての仕事もできない。職場を追い出されてしまう。愛する人とも会えず、住む場所も失った花子は、ついに気が狂い、狂女となる。
花子はふらふらと、野上(岐阜県の関ヶ原)から京都の下鴨神社まで放浪し、下鴨神社では気がふれた女性としてからかわれている。(当時の神社は、逃げ場であり守られた聖域であったこともわかる)
そこに吉田の少将が偶然に通りかかる。
狂女と馬鹿にされていた女性の「扇」を見て、消息不明となり探していた花子、そのひとであるとわかる。
二人は、それぞれが「扇」をあわせ、互いの魂の在りかを確認しあうように、喜びあい、狂いあうように舞う。
能「班女」(はんじょ)は、そういうお話。
この「花子」のイメージは、後にあらゆるイメージを喚起して、クローン細胞のように増殖・拡散していく。
別の能の名作「隅田川」(こちらは世阿弥の長男である観世元雅(もとまさ)の作品とされる)に登場してくる女性も、主人公が狂女なのだが、狂女であるという点において、後に「花子」と同一視されるようになる。
「隅田川」では、子をさらわれた母が、気がふれて発狂してしまう。京都から江戸まで歩いて探し回る。隅田川を渡るために乗った船の上で、探していた息子がまさにこの近くで不遇な死に方をしたことを知る。息子の供養をしに行くと、その場所で息子の亡霊が現れる(能では、特定の「場所」こそが重要になる)。
母は息子に触れようとするが、息子は幽霊であるために触れることができない。生者と死者は直接的に交わることができないのだ。
そうした息子の死を思うがゆえに狂女となってしまった母の物語が、「隅田川」だ。
(「隅田川」では場所が題名になっている。ある意味では、場所の視点こそが本作品の主人公でもある)
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「隅田川」の狂女である母は、後に「班女」(はんじょ)の主人公としての狂女の花子と同じ人ではないか、と拡大解釈されていく。観るものに、複数のイメージが塗り絵のように重ね合わされていく。
狂女としての「花子」は、民衆の想像力と無意識を刺激した。
あらゆる悲しみを「花子」が器として引き受けたのだ。
能だけにとどまらず、狂言や歌舞伎などあらゆる芸能の世界に「花子」というシンボルが広がっていくことになる。三島由紀夫も、近代能楽集の中で「班女(はんじょ)」として花子を取り上げている。ちなみに、三島は、日本の狂女には品格があり、狂うことで我々の世間から高く飛び出し、ついには神にまで高まる、と書いている。
愛情の深さゆえに、愛は狂気となり、狂わざるを得なかった人間という存在。
狂うことでしか生命の均衡をとることができなかった人間の深いかなしみ。
そうしたものを「班女」と「隅田川」という能の作品は色濃く残している。
森山開次さんの演出と踊り、そして酒井はなさんと津村禮次郎さんの踊りやたたずまいは、そうした「かなしみ」を深く掬いとって、引き取っていた。
死者への思いが深く、死者をこの世に生き返らせようとするほどの強い思い。
死者をこの世に召還して復活させるかのようなシャーマニズムを思わせるダンスは、人間の情の強さと、狂気に達するほどの愛の強さが強く放射され、ある意味では神々しく、鳥肌が立つものだった。
三人の踊りをけん引していく笠松泰洋さんの音楽も、複数の位相と次元とが同時存在していることを、音のゆらぎから感じさせてくれるものだった。日本の音(箏)だけではなく、日本に楽器がやってきたルーツである大陸的な懐かしさを感じる音(ケーナ)もあり、西洋の絶対神とつながる超越的な音(バロックハープやピアノ)も重なり、音の波動で複数の平行世界が同時存在していることを予感させるような音楽だった。
終わってから気づいたが、あの素敵な衣裳が新居幸治さんだったとは!納得だ。
Eatable of Many Ordersの実店舗は熱海のど真ん中にあって、とっても素敵なお店。
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あらためて思ったこと。能のスタイルはかなり完成されている。隙がないほど贅肉がそぎ落とされた世界だ。
極限までそぎ落とされた能の世界の本質を、森山開次さんが実に見事に現代に召還させて、昇華させていて、素晴らしい舞台だった。
人が狂う、ということも、生命の働きの一環だ。
何かを守るため、狂わざるを得なかった。
狂うことでしか、守れないものがあった。
果たして、それは何なのだろう。
わたしたちが狂ってでさえも守るべきものは、果たしてなんだろう。
そういう問いを突き付けられた気さえした。
素晴らしい舞台。
また来年も、この「伝統と創造シリーズ」が楽しみだ。
演出・振付|森山開次
出 演|酒井はな、津村禮次郎、森山開次
強き愛ゆえの、苦しみと喜びと哀しみと。
HANAGOと呼ばれた一人の女性の、愛をめぐる一生。
森山開次を迎えてお届けする“伝統と創造シリーズ”の記念すべき第10弾は、能の名作「班女」「隅田川」の登場人物・花子(はなご)に焦点を置き、二つの演目を元に、一人の女性の一生を描いたダンス作品です。花子を演じるのは、ダンサーとしてますます輝きを放つ酒井はな。花子にまつわる存在を能楽師・津村禮次郎、そして森山開次が演じます。今回が初共演となる、森山開次と酒井はなのデュオにもどうぞご注目ください。
伝統と創造シリーズとは
能楽堂という日本の伝統的な様式を持つ空間を、コンテンポラリーダンスの振付家がどのように解釈し、扱っていくかを問う企画。2008年より継続して制作している。
作曲:笠松泰洋[レコーディング・ミュージシャン 箏:北川綾乃 バロックハープ:伊藤美恵 ケーナ:岩川光 お囃子:望月太満衛 メイ:笠松泰洋]
衣裳:新居幸治(Eatable of Many Orders)
照明: 櫛田晃代/音響:野中正行(響き工芸サウンドアリアレコード)/舞台監督:川上大二郎
宣伝写真ヘアメイク:松本順(tsujimanagement)/宣伝写真:池谷友秀/宣伝デザイン:小山睦浩(mograph)
主催/企画制作:セルリアンタワー能楽堂
企画制作:スタジオアーキタンツ
協力:オフィスルゥ