3月11日を迎える度に思い出す
3月11日を迎える度に思い出す。
あの時の身体感覚。
不安、おそれ、絶望、孤独、世界の終わり、いろんなこと。
頭以上に、身体が、心が、覚えている。
水を飲めなくなるのかな?
もう風にあたることもなくなるのかな?
人間はこの地球にすむ権利がないのかな?
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とか、そうしたこと。
今でも、そうした深い気持ちはザワザワと奥底にあり、うめいて、動き続けている。
あのときに動いた心の層は、いまでも動き続けている。
福島の人たち、東北の人たちは土地を追われた。
それでも、いまでに原発が稼働され続けたりする動向を見ていると、この病は深いな、と改めて思う。今のシステムは、深い病にかかっている。
誰にも止めることができない、ということ自体が、システムや仕組みそのものに潜む深い病だ。根底にある仕組み、その背景、に対して、目を向け、最善の対応を考え続けていくことしか、できない。
人間が生み出したものは、人間にしか解除できない。
悪は、水の流れのようなもので、人類の中を通り抜けてきた。
小さい悪は小さい悪として個人を通過する。小さい悪事を働く。
ただ、小さい悪も、たくさん、たくさん集まって、どこかの一か所へと、水が合流していくように巧妙な水路がつくられてしまうと、悪は強大となり猛威をふるう。
その水源は、かなり古い場所から流れ出してきている。
汚れてしまった水は、中和させ、浄化するしかない。それは自然の仕組みからしか、学べない。
人は、身体に何か異変が起きても、心に何か異変が起きても、その「違和感」を大切にしない。
「違和感」っていうのは、何かとずれている、ということ。
そもそも、自分の中の何と何とが、自分の中のどことどことが、ずれているのだろうか。
そのズレへの身体感覚こそが、普段は沈黙して多くを語らない「命」という存在を考えるときに大切なことだ。
身体に危ないことが起きていても、頭は大丈夫、大丈夫、と現実をみないふりをする。
なぜなら、現実は、真実は、ときに劇薬だからだ。
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さて、自分に何ができるのか。
いろいろと、ある。
無力や絶望、という感覚は、あまりにも結果を急ぐことから来る、頭の情報。
頭は、とにかく速く急ぐことに、その仕事の特徴があるからだ。
ときに、小さな親切は、余計なお世話、となる。
何十億年という、命の流れ。
数百万年での、人類の流れ。
こうした流れこそが大事なのだ。
1日1日が1年となり、果てには1生となるように、大したことがないような一歩ですら、歩む向きさえ変えていれば、それは大きな一歩なのだ。
一歩を踏み出すこと以上に、日々歩んでいる一歩一歩の足の先が、ちゃんと自分が向かうべき先に向いているかどうかが、大事なことだ。
人は、その歩みの先に、必ず出会うべき人と、出会う。
そのためには、自分の根っこを再確認し、自分は果たしてどことつながっていて、どこからどのようにしてこの世界に生まれてきたかを、再確認する必要がある。
生きていることは、命がつながってきた、ということであり、生き残った人たちの物語の総和であり、それは数えきれないほどの偶然と意思との連鎖の果て。
戦争や飢餓や飢饉。
あらゆる苦難。
全ての生きている人に関係がある。
なぜなら、自分たちはそうした過酷な環境をなんとか生き残った子孫、そのものだから。
かれらの期待に背かないように。
祈り、思うこと。
それは、違う世界にも回路を開いた、ということ。
水は、そうして循環し、大きな巡りとなる。