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映画「グリーンブック」

映画「グリーンブック」、とてもいい映画だった。

1960年代のアメリカが舞台。 天才黒人ジャズピアニスト(ドクター・シャーリー、カーネギーホールに住んでいる!)が、黒人差別が強く残る南部アメリカへの演奏ツアーに、自ら志願して行く。その時、運転手兼用心棒としてイタリア系アメリカ人(トニー・リップ)を雇うが、その運転手も黒人を強く差別している(彼がイタリア系アメリカ人である、ということも重要な伏線)。

2か月に及ぶ車の旅で、共に本音をさらけ出す。二人はぶつかりあいながらも、同じ「目的」を共有する旅を続ける。

主人公のピアニストは自分のリサイタルでメインとして招待されているにも関わらず、地域によっては黒人差別のためホテルにも入れず、トイレにも入れず、レストランにも入れない・・・。不条理な現実がある。

ちなみに、タイトルの「グリーンブック」は、黒人が利用していいとされる施設を記したアメリカの旅行ガイドブックのこと。

お涙頂戴のストーリーになっているわけではなく、二人の旅を通して、ぶつかりあいながら分かり合っていくプロセスには、「心の動き」を色々と考えさせられた。見ている側も、共振して「心が動かされる」ものがあった。 音楽の力や可能性にも強く訴えてくる作品だった。

〇Soundtrack (Trailer) #1 | Unsquare Dance | Green Book (2018)

観た後、人類の歴史、そしてその先、についてグルグルと考えさせられた。無意識が活性化した。

(ここから先は自分の無意識が活性化した内容で、映画そのものとは関係があるようで、ない、かもしれません。)

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あらためて思ったことは、人種差別の激しさのこと。

そこには歴史的な問題が多く絡んでいて、奴隷制という人類の負の遺産が大きくかかわっている。 もともとの奴隷制は、おそらく戦争で捕虜にした人たちを都合いいように扱ったことから来ていると思うのだが、ある時点から生まれもって「支配する側」「支配される側」とに二分されてしまった。そうしたことと奴隷制が関係しているのだと思う。つまり、そういう仕組みがどこかで作られた、ということだ。

黒人は、いつのまにか支配される側として生まれ、圧倒的な人種差別を受ける側になった。「見た目」で分かりやすいからだろう。皮膚病としてのハンセン氏病が大きな差別を受けたのも「見た目」が大きい。

支配される側や奴隷とされてしまった側。

その歴史の中で流された悲しみや涙は、計り知れない。想像を絶するものだ。人間とはここまで残酷・冷徹になれるのだ、と。

今の人類が積み上げたいろいろな素晴らしいとされるものも、膨大な悲しみの上に積み上げられたものも多いだろう。

アメリカは、建国からもともとそうした血なまぐさく悲しい歴史を抱えていて、そのことが常にアメリカの文化に影を落としている。 もちろん、それはあらゆる国で起きていることでもあるし、個人や村や共同体という小さい規模で起きたか、国家という巨大な規模で起きたか、そうした規模の違いでもある。

いじめの構造も似ている。こどもが初めて出会う人間関係の矛盾かもしれない。自分がいじめられる側に回りたくないので、素早くいじめる側に回り、かたくなにその側を譲りたくない。ただ、そもそもその二つの極端な立場の根拠はあやふやなもので、力が強いもの、声が大きいもの、悪知恵が働くもの(特に言葉の能力)、、、そうしたものが一過性に得た立場なだけでもある。

 

ワーグナーに「ニーベルングの指環」というオペラがある。

このオペラは、 世界を支配できる「指輪」にまつわる神話的な物語で、「世界を支配できる」ことに多くの人物が(神々までも!)振り回され、本性を露呈され、共にいがみ合い、憎しみ合うきっかけとなる。人類の黙示録のような恐ろしい毒をはらむオペラだ。最後、その指輪はもともとあった海底へ戻り、物語は終わる。指輪は海底から地上へと移動したが、それは人類や神々を大きく巻き込み、あらゆる災いを起こし、最後は元あった海底へとただ戻っていく、という台風のような話だ。 この「指輪」は、ある意味で「悪」の象徴であるとも考えられる。「悪」を活性化させ、顕在化させる「指輪」。

深い無意識から突如としてやってきた「悪」の塊のようなもの。それはあらゆる人の中を通過し、それぞれの「悪の芽」を刺激して活性化させる。それは差別を生み、憎しみを生み、不信や不安の種となる。

そもそも、ワーグナーは、ユダヤ人がこの現代の不平等な社会のシステムを作ったと考えた(そういう本を残している。オペラの中では露骨な表現はないが。)。その思想はヒトラーへと音楽の力を得て注入され、戦乱と混乱、混迷の時代の中で、ヒトラーは正当に権力を獲得し、ユダヤ人の虐殺まで至った。ヒトラーの中では、この矛盾と混迷に満ちた現代社会を産み出した諸悪の根源は、ユダヤ人であると極論、し実行してしまった。

確かに、この世界は原初のシステムを作った人がいるのだろう。 資本主義でも、奴隷制でも、法律でも、国家でも・・。 誰かが巧妙に作り上げたものだろう。個人と集団の力によって。そして、そうしたことが戦争の火種になっていることもある。

ただ、そうした根源なる悪を、ユダヤ人、白人・・・などと早計するのはあまりに浅はかだ。 結論としては分かりやすいが、現実はそう単純ではない。

誰にも通過しうる「悪」の根源に対抗しようとする営みを、村上春樹さんの物語世界の深みからも強く感じるが、やはり、その悪なるものの一滴一滴は、個々人の中にこそあり、そうした一滴一滴が寄り集まって大河となったときに、巨大な悪へと変貌する、というのが真実に近いだろう。

そうした巨大な悪を飲み干す器を持ってしまった人間が、歴史的な悪として残る。それは、悪が通過し貯めやすい能力をもった空洞の器のようなもので。

 

映画「グリーンブック」は、確かに感動的な作品だ。 内容も、アメリカの人種差別問題に真っ向から挑んでいて、すごい。 監督のピーター・ファレリーはアメリカ人で、自国の負の歴史をこうして描くのは大変な勇気がいっただろう。

そう、この映画のテーマに「勇気」という言葉が出てくる。 これは、心理学者のアドラーも大切にしていた概念だ。

「善なるもの」は、比較的スッキリしていてシンプルだが、「悪なるもの」は、あらゆる歴史、怒りや恨みや悲しみが複雑に絡まって、一筋縄ではいかない。

だからこそ、そうした「悪なるもの」(それはわれわれの外部にもあるが内部にも巣食っている)に立ち向かうには「勇気」がいる。それは自分の非や間違いを認める勇気だったりする。絡まった糸をほぐすには時間も胆力も必要だし、表現する技術も必要だし、歴史を背負う勇気もいる。

こうした作品がアカデミー賞で作品賞を受賞する事実は、人類の負の歴史に立ち向かう勇気を、やっとわたしたちが得た、ということかもしれない、と思った。 そうした勇気をこそ、この映画から自分は強く感じた。

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