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江之浦測候所 心身は魂の神殿

伊東、熱海から東京への帰りに、杉本博司さんの江之浦測候所に立ち寄る。 オープニングのときに伺わせてもらった時は、大雨が降っていた。

今回は汗ばむくらいの陽気。

江の浦は海が近くて、手が触れそうな気さえする。

古代語の「あま」。 天も「あま」で(天照大神(アマテラスオオミカミ))、 海も「あま」で(海人(あま)さん)、 雨も「あま」で(雨音(あまおと))、 天地も水もすべてつながっているのが「あま(天・海・雨)」という言葉の語感。 それは古代人の身体感覚でもあっただろう。

江の浦という場所で、空や海、目の前に広がる巨大な空間を、頭の中から言語を排除して全体として見ていると、「あま」という語感に込められたものが体感として響いてくる。

人体という内部空間も、膨大な「あま」で構成されている。 身体も、「あま」が巡る循環のつかの間の出来事であり、通り道のひとつだ。

杉本博司美術館、ではなく、江之浦測候所、という名前になっているのが、さすが洒落ているし、杉本さんの洒落も効いている。

古代人たちは壁画や土器を残した。 未来人たちがそうしたものを美術品として崇め奉ったり、金銭でやり取りして資本主義の天国や地獄の演出に一役買うとは、夢にも思わなかっただろう。

生きるために壁画やイメージでの共有が必要だっただろうし、 生きるために土器が必要だった。

すべては生きるためであり、生きること、暮らすこと、創ること、すべては「あま(天・海・雨)」という言葉のように切れ目なくつながっているものだった。

古代人たちの聖地は、宇宙のリズムを読み取るために、重要な場所でもあった。

心身を更新させ、神聖にするために。

心身は魂の神殿なのだから。

春分、夏至、秋分、冬至、という自然の変化の極点のような時期。

「江の浦測候所」という地名には、そうした古代人への敬意が込められているような気がした。

闇のような不可知の世界から、この栄光と挫折ある現世へと生まれてきた人間。 闇から抜け出して光を求める人間の本能、性(さが)、業(カルマ)を映し出す鏡のように。

 

海や山という自然に入り、温泉という熱と水のエネルギーで硬直した心身をゆるめ、ほどく。 砂浜では天地創造のように砂から都市をつくった。

砂の都市は水の流れを繰り返すと、自然へと回帰していった。

人はなぜ創造するのだろうか。 生きることそのものが創造行為だからだろうか。

自然の地形には、自然の命が創り出した形があり、 美術品の造形には、人の命が創り出した形がある。

人間が抱く自然や宇宙への憧れ。 いくら手を伸ばしても永久に届かない。 だからこそ、人は下世話なものへと日々引きずり落とされながらも、生きている限りは崇高なもの神聖なものにあこがれ続ける。

Health(健康)も、Holy(神聖)も、Holism(システム全体)も、古英語ではHalという共通の根っこから派生している。Halは古代ゲルマン語のHagalから由来している。 Hagalは宇宙卵、コズミックエッグのこと。宇宙が生まれる卵のことを意味する。

宇宙卵を孵化する働きと宇宙卵という完全な状態。

卵を割って飛び出してくるのも、混沌とした闇の世界から光を求めて「開かれてくる」働きなのだろう。

花が開くという自然界の胎動は、すべてさざ波のように同期して、世界同時革命のように人間の意識を揺さぶり続けているのだろう。

充実した時を経て、東京の日常に戻った。

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