1日が終わり、1日が始まる
平成最後の日は通常通り大学病院での仕事だった。
病院は長期休みになると困るので、ゴールデンウィーク中にも通常業務の日がある。
難しい治療もあって大変だったが、うまくいき、スッキリした気持ちで仕事を終えた。
天皇陛下も宮中での儀式を厳かにされているだろうと心の中で思いながら、自分も儀式のように仕事をして、仕事を終えた。
能の稽古は、自分にとっての儀式だと思う。
心を整え、言葉を整える。過去を思い、死者を思い、現在を見て、未来を夢想する。
自分にとっての儀式として謡い、舞う。
誰かのためである以上に、眼に見えないものたちのためであり、天下泰平を寿ぐ儀式として。平和を願うことを儀式や生活に取り込まないと、自分という全体性がバラバラになってしまう。
仕事帰りの自転車は、大雨だった。
雨具を着て、フードをかぶる。傘はささない。
都内を自転車で走るとひっそりしている。
GWの文京区は静まり返っていた。
大雨で人もいないので、平成を閉める儀式として高砂の謡曲を謡いながら自転車をこいで帰った。
明日はまた、新しい一日の幕が開く。
「あなたにとっての健康とは何か?」
そう聞かれたとき、自分はこう答えた。
「1日1日が、死と生の再生の儀式として、朝起きたときに新しい1日として感じられなくなった時、自分は健康ではない。
朝起きたとき、ああ、新しい1日が始まる、今日も生きて朝目覚めることができてよかった、と、1日1日思えない日は、自分は健康ではない。
健康ではないと感じれるからこそ、今の自分はホームポジションからずれていることに気づくことができる。」と。
そのことは3歳くらいから漠然と思っていること。常に意識していないと、無意識の海に沈んでしまう大切な感覚だから、意識することで無意識との関係性を保ち続けることができる。
平成から令和に時代が変わると、人はみなああ今日という1日が終わり、明日は新しい1日が始まる、と感じる。
日々そう自然に感じることが、自分にとっての健康だから、日々そうありたい、と、今日も改めて思った。