暮らしと芸術
熊本の実家には、自分の土台に食い込む色々なものが散乱していて、遺跡の発掘作業のようなことをしていると、当時の自分の感情と共振する。
高校時代に大枚はたいて親と共同購入した蓄音機を確認。二台ある。手動で動くので停電した時に真価を発揮する。
通常のLPレコードではなくて、SPレコード(国際的には 78rpm recordと呼ぶ)という、すごく脆くて、録音時間も少ないレコードを再生するための機械が蓄音機。都内だと富士レコードくらいしかSP版は売っていないかな。1950年代後半までSP版は作られて、その後はLPレコードに移行した。
でも、
SP版の音の質はとってもよくて、音楽を記録しているというよりも、空間や気配や場そのものを記録しているような気がするのがSPレコードのすごいところ。
自分は高校生時代から音楽そのものよりも、音楽を包み込む空間や場そのものが好きだった。その母体から音楽は生まれてくるから。
当時は一発撮りが普通で、その瞬間に場にはりつめた緊張感まで、音の一部として録音されている。
CD時代は、音楽という聴覚野の信号部分だけを抽出して取り出そうとしていた気がする。 もちろん、そうした音楽の現状に風穴を開けようとする音楽家の方も大勢いて、そうした音楽の全体性を探求している人たちが自分は大好きだ。
5/1に対談した高木正勝さんも、5/8に久しぶりの対談をする大友良英さんも、そうしたおひとり。
蓄音機、すこし修理しないといけない。それはまた次回にしよう。
高校生の時、竹整のレコード針を自分で彫って作ってたなぁ、とか思い出す。見様見真似だったから、いまだに正しいやり方だったのかどうかすら分からない。
広い家に引っ越す時が来たら、SPレコードもまた再開したいなぁ、と。
実家にある父のアトリエを覗く。 父親は個を深める時間を大切にしていて、母親も同じ。
医術は仕事として、芸術は個を深める乗り物として。
個を深めていくプロセスは、静かな波紋として人知れず確実に伝承されていく。
人生を消費するのではなく創造するように生き続ける。そうすれば日々は常に新しい1日となる。
絵の具のパレットは、苔のように、生き物と化していて、キャンバスに転写されるタイミングを今か今かと待ちわびている。キャンバスだけではなく、パレットも絵を描く暮らしから生まれた、観客不要の現代アートのようなもの。
キャンバスだけではなく、パレットも、描く人も、すべてを含めてひとつの作品だ。