『MANSAI 解体新書 その参拾 特別版『5W1H』』@世田谷パブリックシアター
『MANSAI 解体新書 その参拾 特別版『5W1H』』@世田谷パブリックシアター
芸術監督・野村萬斎さん+真鍋大度さん+石橋素さん(ライゾマティクスリサーチ)での身体表現+映像表現を見ながら、第2部でのトークを含め、観客と共に、互いを深め合う場だった。
自分も舞台は初見だったので、第2部は何の話になるのかなぁ、とドキドキしたが笑、舞台を見ている時に自分の中に沸き起こってきたものを中心に話した。自分の中を呼び起こしたものは地下水脈で他の人たちともつながっている場所だろうと思ったから。
最初に浮かんだのはこの三つ。
一つ目は認知症の人との対話。 二つ目はミクロとマクロの人体。 三つ目は自分たちの中にある3つのカメラ。
一つ目、認知症の人との対話。 在宅医療で認知症の人の自宅を訪れたときのエピソードで印象深かったことがある。
訪問したときに、
「あなたは誰ですか?」
と言われ、門前払いで家にいれてもらえなかったことがある。
「わたしは、・・・です」と、名前や所属を言っても、 「あなたは誰ですか?」と言われて、玄関に入れてくれない。 聞こえなかったのかな、と思い、もう一度言い直したが、 「あなたは誰ですか?」と言われてしまう。
その後、この問答が5回ほど続く。
5回も「あなたは誰ですか?」と言われ続けたとき、自分ははた、と思った。
「自分は誰なんだろう?」と。
まるで禅問答のようなものだが、
「あなたは誰ですか?」と何度も聞かれたとき、あなたはなんと答えるだろうか?
名前?仕事などの所属先?社会での役割?生年月日?出生地?・・・・
まさに、今回の公演のテーマが指し示す『5W1H』である、Who(だれが)When(いつ)、Where(どこで)、What(なにを)、Why(なぜ)、How(どのように)の答えになる。自分の属性を規定するものとしての「わたし」。
ただ、ほんとうに自分自身を決めているのは、そうした外的な肩書や事象ではない。
なぜなら、名前も所属もすべて忘れてしまったとしても、「今ここ」に、私は生身の存在としているのだから。
おそらく、認知症の患者さん、自分自身が社会から疎外され取り残されていた状況に対して、自分に問いかけるように、周囲にも同じ問いを発していたのではないだろうか。
「あなたは誰ですか?」
改めて突き付けられると、とても恐ろしい問いだ。
最終的にはいつもの通り往診業務へと移ることができたのだが(いつも何がきっかけになるのか、わからない。その後も、2週に1度訪れる度に、この問答は続いた・・・)、訪問して同じ問いを突き付けられる度に「自分は誰なんだろう?」と考え直していた。
今回の講演では、
「わたしはおぬしで、おぬしはわたし。ややこしやー、ややこしや」
という問いがリフレインされ、往診の時の対話がまざまざと思い浮かんだのだった。
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二つ目、ミクロとマクロの人体。
自分は在宅医療だけではなく、心臓の治療も専門にしている。3ミリの心臓の血管を0.1ミリのワイヤーで治療をする。血管の中から全身の治療をするので血管内治療ともいわれる。
0.1㎜の精度が求められる世界なので厳密な正確さが必要とされるし、集中力を途切れさせるわけにはいかない。1時間ほどで治療が終わるときもあるが、8時間以上かかるときもあった。患者さんも命がけだが、治療している自分も必死だ。夜中の2時にたたき起こされる緊急治療の時など、治療後は心身ともに疲労困憊する。 言い換えれば、人間の体というものは、ほんの0.1㎜で異変が起きただけで、簡単に命を落としてしまうことでもあるのだから。
そうした治療の時、ふと思うことがある。 「この人間という存在は、果てして誰が作ったのだろう」
と。
ミリ単位で構成される人の体と言うシステム。いのち、生きている、という不可思議な仕組み。 「誰が作ったのだろう?」
自分の中で何度も自問自答した。
ミクロの精度で構成されている命は、同じようにマクロな世界としての宇宙的な時間とも連動している。分かりやすい例で言えば、女性の月経がある。宇宙に浮かぶ月の周期と体とが連動しているとは、恐るべきことではないだろうか。
男性でも女性でも、人体にある植物性臓器(意識的に管理できない臓器)は自然界のリズムと共振する性質を持つ。
ミリ単位、マイクロ単位でミクロの世界で精密に構成されているこの生命は、地球外の宇宙のリズムとも分かちがたく結びついている。この宇宙の外的なリズムは、人体の中に入り込み体内リズムとなり、それは意識の発生、意識のリズムとも関係してくるのだが、そのことは単著『いのちを呼びさますもの』(アノニマ・スタジオ、2017年)に細かく書いた。
「この命を作ったあなたは、誰ですか?」
この問いは、医療関係者であれば、無意識に一度は感じることではないだろうか。
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三つ目、自分たちの中にある3つのカメラ。
この世に生まれて1年から2年くらい経つと、私たちの中に「わたし」という自己意識、つまり「自我」というものが立ち上がってくる。
「自我」とは説明するとややこしやーなのだが、つまりは「私は私である」と意識できる能力のこと。自我が生まれる前は、すべてを受動的に受け入れるだけだったのが、主体的に選択するためにはその司令塔が必要で、それが「自我」と言われるもの。大人になると、ある意味では当たり前すぎて気がつかないが、自我は後天的に生まれてきた。
2歳くらいの子どもの「いやいや期」と言われるのがこの時期で、「あれもいや、これもいや・・・」と主張することで、受け身の状態から、自分自身でこの世界に働きかけだす時期。人格形成の土台となる大切な時期だ。 自我は、自分の中から外側を見始める視点のことでもあるので、この視点を「一カメ(第一カメラ)」としよう。
その後、成長し、思春期になると、他者の視線が気になるようになる。 よく見られたい、よく思われたい、かっこつけたい、恥をかきたくない・・・、、そうした他者からの視点を自分に取り込みながら、「自分」を複雑に形成していく時期だ。これは外部である他者から自分を見た視点を獲得する時期のことで、「二カメ(第二カメラ)」の視点が生まれてくるということだ。
自分が外部を見る「一カメ(第一カメラ)」に加え、外部から自分を見る「二カメ(第二カメラ)」の視点の誕生。
多くの人は、この他者からの視点に、やられてしまう。
「二カメ」は、自分に下された評価(ジャッジ)や否定的な意見も存分に含んでいるから、「自分はどうせだめなんだ」とか、「あの人にこう言われたらどうしよう」など、自分が作り出した否定的な像を「二カメ」から作り出してしまい、その視点が逆に自分自身を蝕んでしまうこともある。
そこで、重要な存在として登場してくるのが「三カメ(第三カメラ)」だ。 「三カメ(第三カメラ)」の役割は、自分が自分を見る視点のこと。自分が外を見る「一カメ」、外が自分を見る「二カメ」に加え、自分が自分の内部を見る「三カメ」。「二カメ」と「三カメ」は似ているようだが、全く異なる視点だ。
自分自身の内部、内奥には、からだも、こころも、たましいも、いのちも・・・、今ここに至るまでのいのちの遥かなる時間も・・・・、すべてが含まれている。 これは「自分自身のいのち」の場所とも言えるだろう。 この「三カメ」の視点こそが、自分という存在を支える軸となる。根っこは、両親や祖先だけではなく、あらゆる生命とつながっている。
「一カメ」がどのように外界を観察するか(ここには自分の感受性が鍵となる)、 「二カメ」により他者がどの自分を見ているか(ここには大きな誤解も含まれていることも多い)、 「一カメ」や「二カメ」という個人の関係性や生育歴から立ち上がるものを越えて、何十億年の歴史でこの今まで受け渡され続けた縦軸のいのちの時間としての「三カメ」の視点が合わさることにこそ、自分の生命を支える根っこがある。
この三つの視点のバランスが崩れると、病(体の病や心の病、時には魂の病)という形で発症しながら、新しいバランスに移ろうと体や心なりの工夫をはじめる。
バーチャルリアリティー技術というのは、結局はこうした人間が持つ視点、「一カメ」「二カメ」「三カメ」・・・のような視点が自分の中にあることに気づく、ということに本質があるのではないだろうか。
デジタルも機械も、すべて人間が生み出したものだから、それはすべて私たちの内部にある生命の働き。外部に取り出して拡大したり誇張したりすることで、結局は自分自身に気づくためのものではないのかな、と思う。
15年近い医療現場でもがきながら、悪戦苦闘の実践の中で感じていたけれど、そうした15年を1時間弱の舞台の体験で一瞬にして呼び起こされたのは、本当に不思議なことだ。
今後さらに、こうしたデジタル表現は国境をなくして広まっていくだろう。ネットに接続すれば、あらゆる動画が閲覧できる時代だ。 そのとき、人種や宗教を越えて普遍的な領域へと深まっていく大きな流れが生まれるだろう。そのときに、こうしてわたしたちが生きている、という当たり前のこと、そうした命の手触り、そこから離れないようにし続けることが大事なんじゃないのかな。なぜなら、今生きている、ということが前提として確認し続ける大事なことだから。
舞台表現も含め、人間の表現そのものが、どうしても「一カメ」(自我表現)に偏り過ぎたり、「二カメ」(他者からの評価や承認欲求)に偏り過ぎたりすることがある。
そのとき、わたしたちがあらゆる生き物から受け渡された「いのち」の場所に戻してくれるのは「三カメ」のまなざし。それは夢の世界であり、命の世界であり、「誰が作ったのか」が誰にも分からない、命や地球、宇宙の歴史そのものの時間になるんじゃないのだろうか。
この現代社会が「自然」から収奪し続けて貧富の差を拡大させた時代であって、もう袋小路の行き止まり直前に来ている。今まで奪い続けた「自然」へ、借りたものををお返しする時代へと立ち返る時代に来ている。そのとき、わたしたちの命と、この大自然の命とが混ざり合い重なり合う場所まで、自分自身を深く内省する「三カメ」の視点を失わないことが大切なんじゃないのだろうか。
世田谷パブリックシアターの芸術監督でもある野村萬斎さんは、権威付けられた評価の定まった表現を行うこと以上に、こうしてお客さんと問いを共有できるような新しい課題にこそチャレンジされているのではないのかな、と思った。
狂言の世界で縦軸の時間を大切にして守り続けている方だからこそ、実験的な企画で現代特有の息吹を注入し続け、「伝統」が窒息してしまわないような蘇生・救命行為をこそ、されているのかもしれない。それは人類の未来のため、でもある。
自分はそうして時代に「挑む」姿勢こそ、素晴らしいと思った。それは人類の課題だ。
僕らが忘れかけている若く不安定な10台のころ。
その若い時期。未熟だけれど熱く燃えている命の燃焼、そのものなんではないだろうか。
萬斎さん、真鍋さん、石橋さん、ライゾマのみなさん、・・・・が共有したかったことは、そういうことなんじゃないのかな。
他にもいろんなことを萬斎さんと対話した気がする。 核となるのは上に書いたようなこと。
別の日のゲストが話したことも、聞きたかったなぁ。
MANSAI解体新書特別版『5W1H』は、7/14日曜、ゲスト田根さん!の回で最終日ですので、もしお時間ある方はぜひー!
萬斎さん、みなさん、素敵な表現と対話の時間を、ありがとうございました!
■2019/7/13(Sat)(14:00-16:00):『MANSAI ? 解体新書 その参拾 特別版『5W1H』』(芸術監督・野村萬斎+真鍋大度+石橋素(ライゾマティクスリサーチ) 第二部:トークゲスト 稲葉俊郎) @世田谷パブリックシアター(東京都世田谷区太子堂4-1-1)
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