横尾忠則『原郷の森』、村上春樹『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』
文學界、という雑誌があることすら知らなかったんだけれど、文學界2019年8月号には村上春樹さんと横尾忠則さんが名を並べているので、思わず読んで、やはりすごく面白かった。
春樹さんの『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』は、最初に付き合った女性の記憶にまつわる、音楽や芥川龍之介、死についてのエッセイ。生と死とはほんとうに並行世界なんだろうなぁ。いまもまさに。もし自分が死んでいても、こうして自動機械でFacebookに投稿され続けていれば、生と死とがパラレルに共存していることと同じ。そのとき、自分はどこから何をみているのだろう。三国志の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という言葉を思い出した。「死せるものたち、生けるものたちを走らす」と。
横尾さんの『原郷の森』は、芸術や美術を穴の中心として、霊や死を含めた壮大なこの生ける世界の全体像の話。本当に飛び上がるほど面白く、自分は横尾さんにどれだけのドアをあけてもらったか分からない。おそらくこの小説のような形態をとった不思議な「意識の流れ」とでもいうような三途の川の流れのような文体は、横尾さんならでは、だ。
横尾さんの最新のTwitterとも連動している。
@tadanoriyokoo 7月30日
時々、こんなことを思うことがある。子供の頃から絵を描いていて、それが職業になってしまったけれど、もし絵など1枚も描いていなくって、今の83才に突然絵を描いたら、どんなによかったかなと思うことがある。きっと今以上に面白い絵が描けるはずだ。
@tadanoriyokoo 7月30日
どうしたら今の絵の知識や技術が忘れられるだろうか。ただし、ただ描きたいという欲求だけは残っている。画家は誰もこういう状態を望んでいるのではないだろうか。
@tadanoriyokoo 7月30日
初心に帰るということは、知識も経験もスコーンと忘れて、始めることだ。
@tadanoriyokoo 7月30日
自分の中の子供や素人(アマチュア)に目覚めることがアートである。
@tadanoriyokoo 7月30日
ぼくが色んなスタイルの絵を描くのは、自分のあると思っているスタイルを捨てることなんだ。
@tadanoriyokoo 7月30日
または、複数のスタイルの絵を描くことで、自分のアイデンティティをゼロにして「私は何者でもない」という境地に出合うことなんだ。
@tadanoriyokoo 7月30日
自我とか、個性とか、主張とか、意味とか、努力とか、なぜ? とかを持たないことだ。そこにはぼくの考えるアートがあると思う。 https://twitter.com/tadanoriyokoo
http://bit.ly/1Xgurj
ちょうど横尾さんのアトリエにお邪魔して与太話をしていたとき、この文学界ではじまった連載の話も出てきた。 そのとき、村上春樹さんの大ファンである自分は、昔から感じていた春樹さんと横尾さんのある共通点を指摘した。 Y「へー、それは知らなかった。それって有名な話なの?」 I「いえ、たぶんそのことに気づいて、そういう視点で追い続けているのは自分くらいだと思いますよ。」 Y「それは、あるかもしれんね。ぼくは春樹さんとお会いしたことないけど、それならいつか天の計らいでお会いすることあるかもね。」
きっと、横尾さんと春樹さんはどこかで邂逅を果たす。それは永遠に公開されない非公開の対話として。 自分がプライベートで横尾さんと話している内容も、「非公開だからこういう話もするんだよ。90%以上公開できないよね。公開対談だとやっぱり別の話になるよねぇ。」と言われたから、二人だけでしか開けない対話、その人との関係性でしか開かないドアをこそ、大事にしたい。
横尾さんと話した帰路、頭の中を巡ることは、「カルマ(業)の法則」のこと。 つまり、この世で行ったことはカルマ(業)となり自分にすべて付着していて、必ず自分がいつかどこかで摘み取らなければいけない。 それは法律に違反していないから許されるんだ、とか、そういう話ではなく、誰も見ていなくても、自分自身の良心や道徳の源泉と共に行う行動指針のことだ。 そう考えるためには、この世ですべてが終わり、と考えていると、生きている間に好き勝手やったもの勝ちだ、となるので、前世か来世かあの世か、、、なんでもいいのだが、この世と異なる異世界を胸に持つことが大事になる。
そのことは、きっと芸術の本質とも関係している。
芸術があくまでもこの世での成功や評価だけを求めるものならば、それはただの人間関係のゲームでしかなく、魂のない形だけの神像や仏像と同じものになってしまうだろう。
誰かが見ているから、誰かに評価されるから、とかではなく、この一挙一動がすべて種となって魂の大地にふりまかれ、自分の魂のどこかで発芽して果実を実らせているのだと思いながら、思いも言葉も行動も、礼節や美意識をこそ大切にしたいものだ。
外部の規範にではなく、内部の魂の光をこそ生きる指針にしないと、わたしたちの魂は簡単にバラバラにほどけてしまい、ほかの誰かにその一部を譲渡してしまうことになる。また取り戻すためには大変な試練を必要とするのだから。