ハス(蓮)の花のメタファー
上野、不忍池でのハス(蓮)の風景。
仏教では、泥水の中から美しい花を咲かせるハスの姿を、ホトケ(仏)の智慧の象徴とした。
不忍池でハス(蓮)の花を通る度に、本当に美しいメタファーだなぁと思う。
どんな悪い環境でもそこに楽しさを発見して、自分を育む滋養として、環境とは関係なくせめて自分は美しい花を咲かせる。荒れた時代であるほど、力強いイメージとして響く。
それぞれが暮らしている環境や仕事環境がベストではないかもしれない。内輪の実情を知るほど、底に貯まる未浄化な泥が見え過ぎるかもしれない。
ただ、そこで美しい花を咲かせるというシンプルな行為にすべてのエネルギーを集約させる。
こうして遠い場所から見てみると、ああ、あちらでも頑張ってるな、あそこはつぼみでもう少しだな、とか、遠い場所からの方がよく分かる。 辛抱強く頑張っている人に共感しながら。
ちなみに、「一蓮托生」という言葉は、悪い行動や運命を最後まで共にする、という悪い意味で使われることも多い。 身分制度が残る江戸時代、身分違いでどうにもならない恋路の二人が、現世で結ばれないならばせめて来世で恋を成就させましょうと、二人が心中するときに「一蓮托生」という言葉が浄瑠璃などでで使われて、そのことが運命を共にする悪いイメージがついたようだ。来世のイメージを言葉で共有することで救われた人も多かったんだろうなぁ。
「一蓮托生」の元の意味は(原始仏教にはなくて、日本の浄土信仰から生まれた考えだけれど)、死んだ後に極楽浄土に往生して、仏や菩薩と同じ蓮の花の上で生まれ変わりましょう、という意味で、「一蓮托生」を無心でイメージすると素敵な言葉だ。
ハス(蓮)の花を見ていると、あの世をイメージした気持ちも、なんとなく分かる。
朝歩くと、太陽の光で蓮の花がパチン、パチン、パチン、と開く音がして、自分の中の「新しい人」が目覚めるような気持ちにもなる。