生命の本能は「楽しくやろう」
電車のホームにて。
藤田一照さんの「ブッダが教える愉快な生き方」(NHK出版 学びのきほん)というタイトルから思い出したこと。
あるとき、電車が遅延して、どの大人たちもイライラしていた。 イライラとする人、スマホに熱中する人。いろんな人がいて、自分はふだんできない読書ができる格好の時間だ。
ふと、近くにいる子どもたちを見た。 小さい子どもは、親の股をくぐったり、ジャンプしたりして遊んでいる。(場合によっては親が怒っている) まわりの大人は、独り言のように文句を言い続けている。頭の上から湯気が沸いているように見えるほど、全身の血が頭に結集している。
子どもを見ていると、生命の本能は「楽しくやろう」だなぁ。と思う。 楽しくないなら、工夫して、楽しくやる。 たとえば、幼稚園前くらいの子どもで、暗い顔をした子供なんて見たことない。 もし暗い顔をした子どもがいたら、それは大人や社会が仕向けているだけで、生命の本能は、愉快で楽しく面白く、ではないのかな。
でも、子どもも大人がつくった暗い世界に落とされると、生きる喜びも落ちる。
ごつんとげんこつされた子供は泣いていた。 でも、すぐに気を取り直して遊んでいた。遊びに命をかけている、すごい意欲だ!
子どもを見ていると、明るい意欲 愉快で楽しく面白く、と工夫するのはほんらいてきな生命の本能ではないかと思う。ただ、どこかのプロセスで大人は明るい意欲を落としてしまう。
ここに、生命にとって、色々と重要なことが含まれているんだろうなぁ。
こうした光景を見ていると、隣の子どもが自分の股をトンネルのように潜り抜けてきた。 だから、一緒に遊んだ。
人の股をトンネルに見立てる。 イライラした大人の心に風を起こすように全身で走り回る。これは芸術の視点でしかない。
イライラして待つ大人。その大人の世界には何が広がっているのだろう?
電車の待ち時間を一秒も刻も無駄にしないように遊んで、工夫して(ここがポイント)、楽しく過ごそうとしているこどもの世界には何が広がっているのだろう?
こどもを見ているだけで、日々、学ぶことばかりだなぁ。 そこに生命の本能や本質があると思う。
生命の本質から離れた世界を大人がつくってしまうと、生命に自己治癒のプロセスが起きはじめ、生命はシグナルを発する。
うちの二歳の子どもも、妻の帽子とおむすびの組み合わせだけで1時間遊んでいた。
ほんとうに豊かな世界に生きているなぁ、と、嫉妬するくらい創造的だ!