芸術の力
似顔絵セラピーの村岡ケンイチさんのご活動、素晴らしいなぁ。 似顔絵を介して、人生を肯定する。 本当にその通りだ。
自分も元気がないお年寄りの方から聞き出すのは、その人の歴史だ。歴史の中に、解決の糸口がある。 もちろん、歴史には山もあり、谷もある。 その人を支えるポジティブな「山の記憶」もあれば、あまり思い出したくないネガティブな「谷の記憶」もある。
相手の歴史の中にある山や谷を、時には海底や海底火山を意識しながら話を聞くと、相手は「山」の記憶や歴史を思い出し、その人を支える力が呼びさまされる。
ある時に、みなぎっていた希望や力。誰にでもある。 その人の水源から引き出されてきたものだ。 色々なことで水路が壊されていたとしても、必ずどこかにその水源はある。もし水源が枯れていたら、時には深く掘り出さないといけないときも、ある。
そうした心の水源に水路を引いて、肯定する力を引き出しているのが、村岡ケンイチさんの似顔絵なのだろう。そして、わたしたちは「イメージの力」に大きく影響を受け続けている存在だ、ということ。 芸術は、そうした無意識レベルにある「イメージ」の層に強く働きかけている。
・・・・・・ 認知症の病棟に絵を描く三木あいさんの活動も素晴らしいなぁ。 医学的な根拠があるかないか、という科学的文脈に落とすよりも、生命の喜び、という、より根源的なところで、こうした活動が語り合える場が必要なんじゃないかな。
科学は、もちろん対話の場のひとつではある。ただ、科学ですべてを包含することはできない。 だからこそ、理解しあう対話の場やテーブルが、科学以外にも必要で、それは芸術が果たす役割にもなるんじゃないだろうか。同意できなくても、理解はできる。対話は、同意ではなく、理解の場だ。
わたしたちは、あらゆる人や生き物と、関係性を結んでいる。 命を直接的に支えられている関係性もある。 同時に、自分の生命に危機を感じる関係性もある。そうした生命の危険を感じるものとは、「関係性を持たない」関係性を持てばいい。
では、生命の危険を感じるものを社会が排除すればいいのか。もちろん、そうではない。なぜなら、そうしたものに命を支えられている存在も、必ずいるのだから。
それぞれの人にとって、関係性を結ぶもの、関係性を結ばないものは、個別に違う。 でも、全体として見てみると、直接的に、時には間接的に、すべては関係性を持っている。それが生命の輪、というものだ。
そうして冷静に全体性の視点を持つ機会をつくるのは、医学や生物学という学問の役割でもあり、同時に芸術の役割でもあると思う。
芸術が社会と関係性を持つことも大事かもしれないが、特に芸術は、その社会を含む、より大きな森羅万象や宇宙とダイレクトに関係性を持つものだと思う。そして、森羅万象や宇宙は、自分の内なる生命世界からも感じられるもので、ひとりひとりが内なる生命を介した通路を持っている。それは、自分が日々感じ続けていること。何かの拍子に、呼びさまされるものだ。
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このことは、米津玄師さんの「パプリカ」を聞いていた時に、ふと感じたこと。
●米津玄師 MV「パプリカ」Kenshi Yonezu / Paprika