行為の源泉
出版イベントを企画している本屋さんに対してありがたいなぁ、と思いながら、ふと思い出したこと。
ベストセラー請負人、という方と話しをした時のことだ。(実際、その人は大手出版社で常にベストセラーを連発していた敏腕の編集者)
「ベストセラーのコツは、本を買わない人、本を読まない人に売ることです。そうしないと、絶対にベストセラーにはなりません。本を読まない人が本を買うのとはどういうときか?それは、世間で流行ってますよ、世間に置いていかれますよ、と広告の力で訴えること。これは過剰広告でいいんですよ。あと、一番大事なのが、不安やコンプレックスに訴えることなんですよ。とりあえず売れさえすれば、みんな稲葉さんの話を聞いてくれるようになりますから、売れるのが大事なんですよ。」 と言われたのをよく覚えている。
自分は、この方と仕事をするのはその場で断った。
つまり、「恐れ」「不安」を誘発することで本を買わせる、というマーケティング手法のことだ。
よく考えると、テレビが面白くなくなったのも(すべてはないです)、この辺りが影響していると思う。視聴者の「恐れ」「不安」を誘発して、番組を見せたり、購買意欲を促す。目的のために手段を選ばず、というのは甘い誘惑として、それこそ人間の弱さに訴えかけ続けてくることもよく分かる。視点が狭くなるとそういう心理状況に陥りやすいのは誰もが経験していることだろう。そして、意図をもってやっている人もいるし、ほぼ無意識にしている人も多い。
人間の「恐れ」は極めて原始的な感覚で、生後6か月頃に覚える感情。自分の無意識を動かす得体のしれないものだ。 ただ、それは「生命を守る」ために備わった働きで、数十億年にわたり生命を存続させてきた重要な機能だ。生命活動としての「恐れ」「不安」を消費活動に利用するのは絶対に嫌だ。
自分は色々な医療を見てきた。 西洋医学でも代替医療でも首をかしげる医療を見ることもあったが、その違いは方法論ではなかった。
相手に対して、困っている人に対して、愛から行うか、恐れや不安から行うか、の違いだと気づいた。 相手の不安や恐れを誘発する医療行為は、確かに人を集める効果がある。強い支配力を持つ。
人は方法論やテクニックばかりに目が行きやすいが、そのことよりも、源泉となる動機が最も大事なのだと思う。自分の行為の源は愛や喜びなのか?恐れや不安なのか?
欠落や欠損への不安、無価値感・愛されていない・必要とされていないという不安、孤立し仲間外れになる不安、尊厳を奪われ虐げられる不安、幸福が失われ奪われる不安、不幸や困難が永遠に続くのではないかという不安・・・、いろいろな不安が人の奥深くには渦巻いている。
自分の行為の源は愛や喜びなのか?恐れや不安なのか? その違いが分からないと、影響力が大きくなればなるほど、その肥大した力は逆に自分を蝕むものになるから。自分の中の魔物にせっせと栄養を与え続けているようなものだ。
魔物に対してではなく、自分の中にある神性、仏性、霊性のようなものに栄養を与え続けないと、結局は思いがけないところで自分に戻ってくる。
「自分が蒔いた種は自分で刈り取らないといけない」のだから。
あの編集者は、そういう意味で自分が何を考えているかを明らかにしてくれた教師であったと思い、今も感謝している。