「渋谷能」第七夜 千秋楽 舞囃子@セルリアンタワー能楽堂
12/6金曜日は全7回で開催された「渋谷能」のクロージングで、舞囃子の5演目だった。
「高砂 舞序破急之伝」(シテ:本田芳樹(金春))、「屋島」(シテ:観世淳夫(観世))、「雪 雪踏之拍子」(シテ:金剛龍謹(金剛))、「安宅」 (シテ:和久荘太郎(宝生))、「猩々乱」 (シテ:佐藤寛泰(喜多))であり、見事に5流派のシテを同時に見るめったにない機会。
能では「型」や「所作」が厳密に決まっていて、自分なりのオリジナルな動きを見せる、ということはないのだが、「型」通りにやっても、おのずからはみ出してしまう個性や固有性・個別性のようなものがあって、それが見ていて本当に面白い。
会社の社長が変われば、会社の社風は大きく変わる。
同じ業務をしているようでも、働きやすい上司もいれば、働きにくい上司もいる。
そういうちょっとした個性の違いが、芸から染み出てきて、演目も全体性を形作る。
ひたむきさ、真面目さ、癖や個性、視点や観点、人生観や世界観の違い。
何かそうした些細なことが、生き様として染み出てくる。
シテ、笛、小鼓、大鼓、太鼓、地謡。
このフォーメーションが決まっているからこそ、個性がぶつかり合う場になる。
その個性は、エゴという「あたま」の世界ではなく、芸という「からだ・こころ」の世界がぶつかり合う場だ。
そして、その場にはなれ合いの調和ではなく、百メートル走を全員が本気で走りあっているのを見ている時のような、それぞれが自分のレーンを全力で走りながら、そうは言っても隣の走者に影響を受けながら、全体として能力が引き出されあうような、そういう不思議な共創の場がある。これこそが日本のお家芸なんだよなあ、と。
個人と個人はそれぞれが必死に全力を尽くす。場や空間が適切に働いていると、個と個は合わせようとしなくても、全体の場は活性化されて、そうした場全体の祝祭的でエネルギーに満ちた空間をこそ、楽しむ。
能の演者は、全員が短距離走、長距離走のトップアスリートのような人たちで、その人たちが能舞台という設定された空間の中で全力で疾走する。観客は、百メートル走や、時にはマラソン走のような全体の場をこそ共有する。それぞれは合わせようとしていないからこそ、勝手に合ってくる偶然性や一回性をこそ、楽しむ。
そこは生者だけではなく死者も対象に入った共同空間で、そうした活性化された場によって生者と死者の歴史や論理、エネルギーや存在などが結びなおされる儀式的な空間にもなる。
人は生きているだけで、誰もが死者の思いのようなものを引き継いでいて、それを重く深刻に、ではなく、当たり前のものとして自然に受け止めて溶け合わせる。生者がトーチを引き継ぐ。
舞囃子では全員が能面をつけない素顔(直面ひためん)で演目を舞うが、それは「素顔(直面ひためん)」というお面をつけている想定になっているので、わたしたちが無意識に慣れ親しんでいる「顔」から情報を得る通路ではなくて、「全身」から情報を得る通路を開かないといけない。
それは観客にも全身の通路を開くことを要請するので、「素顔(直面ひためん)」の演目を見ていると、非日常や異界へと入りやすくて、本当に不思議な気持ちになってくる。
異界へ入り、何らかの「力」を得て、この日常へと帰還するのは、あらゆる物語に見られる構造だが、僕らはこういう行為(意識的にも無意識的にも)によって、いつのまにか失ってしまった「力」を回復したり取り戻したりしているのだろうなぁ、と。
1年で全7回の渋谷能は、五流派の若手が揃う素晴らしい機会だった。
来年以降も、もう少しペースを落として続けられるようです!!
全7回公演、どれも甲乙つけがたく素晴らしかった!
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セルリアンタワー能楽堂を出て、渋谷駅周辺を見ると、大開発が行われていて、地球の穴のように見えた。
こうして古代から、人は地球を掘り起こしては埋めて、掘り起こしては埋めて、、、ということを繰り返しているのだなぁ、と、古代へと意識が引っ張られていた自分は不思議な気分がしたものです。
(我が家に鎮座する能楽師の木像)