サヨナラと光
『今こそ永遠』(FM軽井沢)の4回目は、出会いと別れの時期、「さよなら(サヨナラ)」という言葉に関するお話でした。
●【radio】2021/4/25(Sun)(AM10:30-10:55):「今こそ永遠」(FM軽井沢 77.5MHz)(メインパーソナリティー:稲葉俊郎)(番組Facebookページ)(毎月最終日曜日(AM10:30-10:55))(FM軽井沢)
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4月という新学期の時期は、色々な職場でも周囲の環境でも、出会いの時期でもあり、同時に別れの時期でもあります。
別れの時に使う言葉に「さよなら(サヨナラ)」がありますが、
日本語の「さよなら(サヨナラ)」という言葉の、もともとの意味をご存知でしょうか。
竹内整一先生の『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』筑摩書房 (2009)という本があります。
竹内整一先生は、東京大学教授(大学院人文社会系研究科・文学部)。専門は倫理学・日本思想史。
自分は東大医学部の学生時代、竹内先生のゼミにもぐり、哲学や宗教、倫理学を4年近く学んできました。
本当に多くのことを学ばせてもらいました。その当時は意味が分からなくとも、20年以上経った今、そこで学んだことが色々なところで生きてきています。
世界の別れ言葉には、
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(1)『神のご加護を願う』:「Good-bye」(神があなたとともにあらんことを祈る)、「Adios」(神のような存在のご加護を祈る)、「Adieu」、「Addio」
(2)『また会いましょう』:「See you again」、「Au revoir」、「再見(ツァイチェン)」、「Auf Wiedersehen」
(3)『お元気で』:「Farewell」、「安寧ヒ、ゲセヨ(ケセヨ)」
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の3パターンに大きく分類することができます。
ただ、日本で最も一般的な別れ言葉である「さらば」「さようなら」「それでは」「じゃあ」「ほな」は、どのタイプにも入りません。別れの表現としては、世界的にもすごく珍しい言葉なのです。
では、「さようなら」とは、もともとどういう意味でしょうか。
「さようなら」は、「さらば」「さようならば」という言葉からも分かるように、元々は、『先の事柄を受けて、後の事柄が起こることを示す接続詞』です。
そうした前と後ろをつなぐ「接続詞」自体が、やがて日本人の別れ言葉として(「さよなら(サヨナラ)」として)使われるようになりました。
「さよなら(サヨナラ)」の語源である「さようであるならば」は、
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(1)別れまでの色々な事柄を総括して再確認している。
(2)「みずから」の営みだけではなく、「おのずから」そうなる事柄を、「そうならねばならないならば」と、ありのまま、そのまま受けとめている。
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というような意味でもあります。
つまり、儚く悲しく切ない別れというものを、そのまま、ありのまま受け止める感性が、別れ言葉として採用されているわけです。
「サヨナラ」ほど美しい別れの言葉を知らない、とアメリカの紀行作家アン・リンドバーグは言いました。
アン・リンドバーグは、1927年にニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したチャールズ・リンドバーグの妻です。
彼女の著作からご紹介します。
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Anne Morrow Lindbergh (著), 中村妙子(訳)『翼よ、北に』(2002、みすず書房)
「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。
これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このように美しい言葉をわたしは知らない。
<Auf Wiedersehen>や<Au revoir>や<Till we meet again>のように、別れの痛みを再会の希望によって紛らわそうという試みを「サヨナラ」はしない。
目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げる<Farewell>のように、別離の苦い味わいを避けてもいない。
「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。
それは事実をあるがままに受け入れている。
人生の理解の全てがその四音のうちにこもっている。
ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。
言葉にしないGood-byeであり、心を込めて握る暖かさなのだ -「サヨナラ」は。
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人生には、出会い、別れ、死など、自分ではどうにもならないことばかりあります。
ただ、それをそれとして静かに引き受け、「サヨナラ(=そうならねばならないならば)」と別れているのだと、異国から日本を見た旅人であるアン・リンドバーグは指摘しました。
『般若心経』には「色即是空 空即是色」という有名な言葉があります。
浄土真宗の真宗大谷派僧侶であった金子大栄は、「色即是空 空即是色」を「花びらは散っても、花は散らない」と、現代語訳しています。
もの(=「色:シキ」)としての花びらは散る運命にありますが(=「空:クウ」)、過去に生きていたこと、現在生きているということは、どうあっても「散らない」ものであると。
散ってしまう「花びら」のような無常な自然の情景、滅び行く肉体を持つ無常な人間、そんな移ろい行く無常をありのまま見据えて、「そうであるならば」「そうならなければならないなら」と、過去をまっすぐに受け止め、わたしたちは今存在しています。その上で、未来へと生きていくのです。
「過去を受け、今存在し、未来へ生きる」
絶え間なく連続しているそんな時間を生きていく上で、日本では「さようなら」という接続詞である別れ言葉を使うことで、過去・現在・未来をつなげながら生きていることを表現しているのでしょう。
「さようなら」は、「そうならなければならないなら」という接続語なので、過去をありのままに見た上で、現在を生き、未来を生きていくという視点をあわせてもっています。
過去の「自分」をありのままに見据える。
受け入れがたい自分であっても。そんな過去の自分をありのままに見て、そんな過去の自分に「そうであるならば」という形で過去に「さようなら」をし、ありのままの自分を受け止めた上で、現在の自分が形成され、未来の自分の鋳型となっています。
「さようなら」という別れの言葉は、「さようなら」をする相手に対しての言葉であると同時に、「過去の自分」をありのまま認めた上で、現在や未来を生きていこうという、時間と共に変化する無常な自分に対しての言葉でもあります。
広報かるいざわの連載記事では、世阿弥の風姿花伝からの引用で、「時分の花」と「まことの花」という言葉を紹介しました。
「時分の花」とは、若い生命が持つ鮮やかで魅力的な花。誰もが「若さ」として通過する美しさです。
それに対して、「まことの花」は、自分が老いて枯れゆくときにも、しっかり育てていればひそやかに咲き続ける花のことです。
自分だけの秘された本質的な部分こそが「まことの花」です。
「時分の花」という若い過去の自分からサヨナラした上で、老いても死んでも咲き続ける「まことの花」を育てなさい、と世阿弥は述べます。
桜の花を見ながら、美しさと儚さ、無常も感じますが、そうして常に変化し続ける自然のあり方に、生命の力の本質を感じます。
『風姿花伝』の中では、35歳頃を人生の折り返し地点と説き、そこから自分の人生を完成させる大仕事に取り掛かることを記しています。
わたしたちは人生の折り返し地点を知らされていないので、その中間点を自分で決める必要があるのです。
このことは、村上春樹さんの「プールサイド」という短編でも記されています。
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村上春樹『プールサイド』(『回転木馬のデッド・ヒート』(1985年)より)
「35歳になった春、彼は自分が人生の折りかえし点を曲ってしまったことを確認した。
いや、これは正確な表現ではない。
正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。
もちろん自分の人生が何年続くかなんて、誰でもわかるわけがない。
もし78歳まで生きるとすれば、彼の人生の折りかえし点は39ということになるし、39になるまでにはまだ4年の余裕がある。
それに日本人男性の平均寿命と彼自身の健康状態をかさねあわせて考えれば、78年の寿命はとくに楽天的な仮説というわけでもなかった。
・・・
だから35回めの誕生日が目前に近づいてきた時、それを自分の人生の折りかえし点とすることに彼はまったくためらいを感じなかった。
怯えることなんか何ひとつとしてありはしない。
70年の半分、それくらいでいいじゃないかと彼は思った。
もしかりに70年を越えて生きることができたとしらた、それはそれでありがたく生きればいい。
しかし公式には彼の人生は70年なのだ。
70年をフルスピードで泳ぐ-そう決めてしまうのだ。
そうすれば俺はこの人生をなんとかうまく乗り切っていけるに違いない。
そしてこれで半分が終わったのだ
と彼は思う。」
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風姿花伝では35歳以降の話も書いています。
45歳頃は、「よそ目の花も失するなり」と記します。老いという人生のプロセスの中で、外から見るとその人の「花」が見えなくなる時期のことです。
世阿弥は、この時期に後継者の育成に励めと伝えます。
自分への執着を一度捨てて、次の世代へ「いのち」を伝え、次の未来を担う人たちを育てていくことで、生の証を他者へ刻んでいくことを薦めます。
表面では見えなくとも、水面下では、着実にその人の「まことの花」は咲く準備は続いているのですから。
その後、50歳以上の時期を、能楽師として最後の段階として述べています。「物数は皆みな失せて、善悪見どころは少なしとも、花はのこるべし」と。
50歳を過ぎるとすべてを失っていきますが、そこにこそ「秘された花」が残っていると説きます。
失うことは否定的に捉えられることが多いのですが、そこに肯定的な意味を見出していくことを促します。
曹洞宗の開祖、道元禅師の『正法眼蔵』の中にも「放てば手に満てり」という言葉があります。
この言葉も、執着や固定観念を手放した時に起こる転換点のことを述べています。
不要なものがそぎ落とされたときにこそ、自分の本質に出会うのでしょう。
ただ、存在している(Being)状態で、あらゆる不要なものに「さよなら」した後に最後に残る花を、世阿弥は「まことの花」と表現しました。
毎日、過去の自分に「サヨナラ」し、新しい自分として生まれなおすように、今と未来をを生きる。
コロナ禍の時代も、そうして手に掴んで離さなかったものが手から零れ落ち、サヨナラし、そのことで別の何かが手の中に入り込んでくる。
そういう時代なのかもしれません。
今回ご紹介した曲は、SUPER BUTTER DOGの「サヨナラCOLOR」(2005年)です。
今はハナレグミとして活躍される永積タカシさんの作詞・作曲です。
『サヨナラ』という言葉の意味を感じながら聞いてみてください。
●SUPER BUTTER DOG - サヨナラCOLOR
●ハナレグミ&忌野清志郎 サヨナラCOLOR
「SUPER BUTTER DOG」は2008年に解散し、現在ハナレグミとして活躍中の永積タカシさん、最近テレビでも引っ張りだこのレキシこと池田貴史さんなどが所属していた伝説的なバンドです。
竹中直人さんは、「サヨナラCOLOR」(2005年)にインスピレーションを受け、映画『サヨナラCOLOR』を監督し、本曲がそのまま主題歌にもなりました。
ハナレグミの永積タカシさんとは、2017年の年末には、「食の鼓動 innereatrip」@青山スパイラルガーデンで共演させていただきました。
■2017/12/28+29+30:「食の鼓動 ──innereatrip」@スパイラルガーデン (東京都港区南青山5-6-23)
●12/28Talk Session1朗読「言霊」
稲葉俊郎+永積タカシ(ハナレグミ)
●12/29Talk Session2献歌「呼吸」
稲葉俊郎+UA
●12/30Talk Session3振動「リズム」
稲葉俊郎+熊谷和徳(タップダンサー)
企画・構成:野村友里
音楽構成:青柳拓次
出演:高木正勝、ささたくや、蘇我大穂、渡辺亮
ちょうどこの会場で、「いのちを呼びさますもの —ひとのこころとからだ」アノニマ・スタジオ(2017年12月22日)の真っ赤な本を最初に販売したので、思い出深く、そんなに前のイベントなのか!とも。
ちなみに、ちょうどその時にBS朝日のFreshFacesの取材も受けていたので、ハナレグミのタカシさんも、番組に偶然出ています。
あらゆることが「いま、ここ」に重なり合いながら響きあっていることに驚きます。
●【Fresh Faces #151】稲葉俊郎 医師(医学博士 東京大学医学部附属病院 循環器内科 助教)
Feb 25, 2018
「食の鼓動 innereatrip」で崇さんと話したテーマは、朗読「言霊」。
つまり、言葉の力と声の力、に関してです。
言葉は誰もが使いますし、声も何気なく発しています。
情報があふれた時代に、言葉は安易に消費され、声を発することも安易に行われていることを危惧します。
言葉の力を取り戻し、声の力を取り戻すためにも、良質な音楽を聴き、良質なテキストを読み込み、時空を超えて魂を振るわせるような共感や共鳴こそが、こうした深い穴に落ち込んでいるきに必要なのではないかと。
ラジオでは、そうした思いを込めて、言葉と声に責任を持ち、その上で、良質な音楽と歌詞を届けるようにしています。
実は、ハナレグミは、8th New Album 「発光帯」が2021年3月31日(水)に発売になったばかりです!
コロナ禍の中、アーティストを何を感じ、どういう表現をするのか、改めて聞いてほしいアルバムですが、今回はあえて2005年という16年前の作品を選ばせてもらいました。
⇒●March 31, 2021
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「サヨナラCOLOR」(2005年)
作詞・作曲:永積タカシさん
そこから旅立つことは
とても力がいるよ
波風立てられること
嫌う人ばかりで
でも 君はそれでいいの?
楽がしたかっただけなの?
僕を騙していいけど
自分はもう 騙さないで
サヨナラから 始まることが
たくさん あるんだよ
ほんとのことが 見えてるなら
その思いを 僕に見せて
自分を貫く事は
とても勇気がいるよ
誰も一人ぼっちには
なりたくはないから
でも 君はそれでいいの?
夢の続きはどうしたの?
僕を忘れてもいいけど
自分はもう 離さないで
サヨナラから 始まることが
たくさん あるんだよ
ほんとのことが 見えてるなら
その思いを 捨てないで
サヨナラから 始まることが
たくさん あるんだよ
ほんとのことは 見えてるんだろう
その思いよ 消えないで
その思いを 僕に見せて
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ラジオの最後には、
エゴラッピン「水中の光」(収録アルバム:EGO-WRAPPIN’『steal a person's heart』2013年)をご紹介しました。
作詞作曲は中納良恵さん。
発売当時、2011/3/11の東日本大震災を受けとめて、内部で複雑な反応をした上で生まれた曲だと言っていたことをうっすらと覚えています。
●EGO-WRAPPIN' 『水中の光』LIVE
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「水中の光」(2013年)
歌:EGO-WRAPPIN'
作詞:中納良恵
作曲:中納良恵
やさしい映画を見たあとには
君に一番早くに話したいんだ
そんなこと思うことも 久しぶりだなあ なんて
やさしい風が坂を登るよ
君に一番早くに伝えたいんだ
心からそう思えることが 確かなこと
あなたの中の私と
私の中のあなたは
つかんでも すりぬける 水中の光
愛している気持ちが言葉になって
過去になってしまう前に
そばにあるぬくもりをただ抱きしめて
あなたの中の私と
私の中のあなたは
つかんでも すりぬける 水中の光
愛している気持ちが言葉になって
過去になってしまう前に
そばにある ぬくもりを ただ
抱きしめるために両腕はある
離れてる距離の間に
遠くから風が吹いた
冬が来る
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水の中を通る光は、重なり合い光を放ちます。
過去、現在、未来、の自分も、そういうものかもしれません。
お互いが響きあいながら、自分の全体性を構成しています。
そして、死も似たようなものだと思います。
死者の命は、光として生きるものに注ぎ込み、生者の生命を明るく光輝かせる力となっているのです。
いま使っている言葉も、わたしたちが住んでいるこの場所も、すべては死者から贈られた贈り物。
そうした死者や先人への敬意の上で、わたしたち生きている者が引き継いでいるこの世界をどのように光輝かせていくのかも、託されていると思うのです。
P.S.
EGO-WRAPPIN’のDream Baby Dream(2019年)も素晴らしいアルバム!
自分はレコードで買いましたが、こちらもぜひ聞いてほしいです。
『今こそ永遠』(FM軽井沢)は、最終日曜日の放映です。
5回目、5/30(Sun)(AM10:30-10:55)
6回目、6/27(Sun)(AM10:30-10:55)
7回目、7/25(Sun)(AM10:30-10:55)
インターネット経由で、ぜひお聞きください~!
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