劇団イキウメ『無駄な抵抗』@世田谷パブリックシアター
劇団イキウメの『無駄な抵抗』@世田谷パブリックシアターを観る。
やはり前川知大(作・演出)さんの世界観はすごかった。世界を演じる俳優陣も素晴らしく。
感想を書くのに、自分の中でろ過させる時間がかかった。
ギリシア悲劇「オイディプス王」を現代に重ね合わせて見る舞台。
実際の舞台も、円形の石畳である古代円形劇場が模してつくられており、古代演劇の原点に戻るようにして、舞台転換はない。円形の広場に、磁場にひきつけられるようにして出会う人たちで展開される運命と自由の物語。
「運命」と「自由意志」がテーマと書かれていた。
わたしが学生時代から学んだ竹内整一先生(最近、ご逝去された・・)が学問のテーマとして掲げていた「おのずから」と「みずから」のあわい、そのものだとも思う。
「運命」としか感じられない時がある。
もちろん、それはただ自分が考えてもいなかったことが起きた、ということでもあるが、「運命」という言い方でしか、心に収めることはできない。運命から逃れようとしても、結局はその運命に引き寄せられているようにさえ感じる。
自分は、人生はすべて「出会い」であり、このアクシデントのようなハプニングのような「出会い」をどう人生に位置づけて行くかどうか、ということが「運命」の肉付けなのだと思う。
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自分が自転車を運転したときに見える風景を想像してみる。
若い時は、とにかくスピードを出して、果てしない未来へやみくもに突っ走ることだけを考えている。周りの美しい風景を見る余裕なんてない。草や花、土には目がいかない。
自意識過剰な時期は自我を作る時期であり、未来を自分に都合よくつくりあげることで不安を感じないようにしているとも言える。
そうして、深く感じたり、深く考えたりすることから避けるようにして先へと進んでいく。
その時、自分の目の前の風景を見ていると、横から、斜めから、自分の道に合流してくる多数の道がある。
その道は、太い道もあれば細い道もある。本流も脇道も、色んな道が交わってきている。
自転車で駆け抜けている時、そうして合流してくる道に思いを馳せることはない。自分の前に存在している道を全速力で突っ走ることしか頭にないからだ。
自分が進んでいる道と交差してくる道のすべては「他者との出会い」ではなかろうかと思う。
では。
今度は自分からの視点をすこし外してみる。
道と道との合流点、交差点そのものになったつもりで、交わる二つの道を見てみる。場の精霊(ゲニウス・ロキ)になったつもりで。
合流地点から、そこへと交わって来る二つの道を見ると、まるで数十年の人生の時間をかけ、遥か遠い彼方から合流地点の一点を目指し、迷いなく伸びてきているように見える。
それぞれの道で自転車をこいでいたときには、青空の日ばかりではなく、豪雨や大雪や交通事故もあり、色んなことが起こったものだ。しかし、合流地点から見るとそんなことはどうでもいいことだ。
寸分違わぬ正確さで伸びてきた二つの道は、合流の一点で一瞬だけ奇跡的に交差する。
それが「他者との出会い」ではなかろうか。
道と道が交差した奇跡的な一点である「他者との出会い」を、どう捉えるのか。
自分の視点で見るのか、他者の視点で見るのか、それとも交差点という場所の視点で見るのか。
今まで交差することのなかった様々な道は、道と道とが交わる合流地点に向かって、時にはまっすぐに、時にはグニョグニョ曲がりながら、迷いなく正確にその一点に向かってくる。
長い歳月をかけて、遥か彼方から、出会いの一点に向けて、向かってくる。
そして一瞬だけ奇跡的に交差する。
自分の道から見ると偶然だが、交わった点から見ると必然だ。
交差する点に伸びてきた二つの道は、それぞれがどこが始まりで、どこが終わりかなんてわからない。
なぜなら、地図で見ると全ての道は全てに通じているからだ。だからこそ、どこが始まりで、どこが終わりかなんて、どこにも真実はない。それを決めるのは自分しかいない。
そもそも、「自分」という存在を考える時に、
「自分=自分」と考えるのか。
「自分=全て―自分以外の全て」と考えるのか。大きな違いだ。
前者は足し算の思考。自分に色々なものを付け加えていくことで「個性」を増やすように生きる。
後者は引き算の思考。あらゆるものの引き算の結果が「自分」として受け入れて、引き受けて生きる。
前者で考えると、出会いは、独立した「自分」同士が起こす偶然の産物であり、
後者で考えると、出会いは、起こるべくして起きた必然と運命の産物である。
偶然なのか必然なのか、自由意志なのか運命なのか、みずからなのかおのずからなのか。
この辺りは、「自分」という存在を「自分」がどう生きているのか、とも関連しているのかもしれない。
「自分」をどう考えるのか、ということ自体が、「自分」が人生をどのような形式で物語化するのか、というプロセスそのものとも言える。
それは、医療現場でひとの話を聞くたびに思う。
それぞれが、物語化された「自分」を生きているのだ、ということを。
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イキウメの『無駄な抵抗』では、数奇な人生を送る様々な人が、電車が止まらない駅の広場により、語り合う「物語り」の形式をとって出会う演劇だ。
この複数の物語が道のように交わる演劇を見て、何を感じるかは見る人に委ねられている。
わたしは、「自分」がたし算なのか、引き算なのか、と考えた。自分の進むべき道を自転車で走り抜けている風景が頭に浮かんだ。そして、道と道とが混じり合う風景が浮かんだ。
すべてが道と道との出会いであり、自分と他者との出会いであり、そうした自分が辿ってきた道をふと見直す時間が生まれた。ここまでたどってきた道は、自由意志として自転車を漕いでいたように思えながら、同時にそれは運命と呼ぶべき人生の道でもあった。そうした感覚が襲って来た。
自分が歩む道をどれだけ『無駄な抵抗』をしたとしても、人生から逃れることはできない。なぜなら、人生は道そのものだから。
昔の人たちが、武道、茶道、華道・・・といったように、何か物事を追求しながら生きていくことを「道」と呼び、それは運命と自由意志が同時に存在している果てなき未来永劫に続くプロセスなのだ、と仮託したことは、そうした心境にも通じているのかもしれない。
ギリシアの古代演劇をテーマに重ね合わせながら、舞台も古代ギリシアを想起させるものだったからこそ、自分の意識も古代と現代とが混じり合うものとなった。
そうしたことをあまり説明せずに、そっと親切に、おせっかいせずに優しく提示してくるイキウメの舞台は、だからこそ見るたびに何かしらの発見がある。常にイマジネーションを刺激され、むずむずと小動物が眠りから起きてくるような。
ぜひ世田谷パブリックシアターに見に行ってください!11月26日までです。
P.S.
ちなみに、劇場パンフレットを購入して読んでみると、古代劇場における医療と芸術は「場」においてつながる、という話を、前川さんのギリシアの旅の中で私の名前を出してくれていて、光栄でした。笑
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世田谷パブリックシアター
『無駄な抵抗』
公演期間
2023年11月11日 (土) ~2023年11月26日 (日)
ストーリー
その駅は半年前に電車が停まらなくなった。どの電車も通過するだけ。住民は困惑しながらも、隣の駅まで行くなり、他の交通手段を使うなりして日常を守っていた。駅ビルは寂れ、駅前の広場は活気を失った。
占い師として活躍していた桜(松雪泰子)は地元に戻ってカウンセラーとして再出発する。クライアントとして現れたのは、同級生の芽衣(池谷のぶえ)だった。
芽衣は、かつて桜に言われた言葉に強く影響を受けていた。その言葉が自分の性格と人生を決定づけ、苦しんでいると言う。あれは予言であり、呪いだったと。
駅前広場で始まる対話は、次第に芽衣を取り巻く奇妙な運命を明らかにしていく。
幼い頃の父の態度、叔父との関係、予言を避けるためにした選択、母の残した手紙、芽衣の入れ込むホストの出生の秘密。叔父が探偵まで雇い、芽衣を監視していたこと。
二人は、芽衣を苦しめているものが何なのか、そして芽衣の心に深く刺さった桜の予言をどうするべきなのか、考える。
広場では、関係者たちが二人の会話に聞き耳を立てている。
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出演 池谷のぶえ 渡邊圭祐 安井順平 浜田信也
穂志もえか 清水葉月 盛隆二 森下創 大窪人衛
松雪泰子
★兵庫公演
会場: 兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホール
日時: 2023/12/9(土)15:00、12/10(日)13:00
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