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岡本太郎『日本再発見 芸術風土記』

を読み直し。








秋田、岩手、京都、大阪、出雲、四国、長崎を歩き回り、そこで見出した民衆の文化との創造的な対決の記録。


それぞれの項も本当に素晴らしいのだが、最後の<日本文化の風土>というまとめの章が、太郎さんの魂がのりうつってくるかのように渾身の思いが伝わってくる。


日本を深く愛しているからこそ、国境を超えた地球的な視座を保ち続けていた人だからこそ、古代と現代と未来とを差別なくひとつの視野でとらえ続けた人だからこそ、この人類の現実に対して、本気で憤っている。人類愛ゆえに。



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芸術風土記を思い立ち、日本の各地をまわった。


私はこの国に生き、なんとも形容できない複雑にからみあった現実に抵抗しながら生活し、戦って行くことよろこばしさに戦慄する。それはまた当然、憤りとの裏表だ。


純粋でありながら未熟であり、混乱し、過去と現在、異質と素地が正しく対決しないまま、イージーにまぜ合わされ、のみ込まれて、問題を失っている。

この混乱―私は必ずしもマイナスとは思わない。むしろこれからの文化の可能性として、それは魅力でさえある。

だが、具体的に分析して問題をえぐらない限り、不毛だ。

たしかに今日の日本文化にはグロテスクな面がある。

これほど己自身を侮辱した国民は、おそらく、かつてなかったのではないかとさえ思えるくらいだ。

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伝統主義か近代主義。情けないもんだ。


そんな気配にふれるにつけ、今日の日本に対する執拗な愛情と憎しみで、身を引き裂かれるような思いがする。それはほとんど苦痛な生き甲斐だ。


わたしはそういう文化層の破廉恥な気分に対して、この風土記をたたきつけたいと思った。

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この世紀において、悲劇的であり、だが誠実である民族の生気にふれ、こういう条件のもとに生き抜こうとするその気配から、新しい人間の生命力、その可能性を見とる。


そこから新しい文化、芸術の問題がはじまるのだ。

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文化は本来、民族の生命力の盛り上がり、その高度な緊張から爆発する。その表情である。

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明治官僚が西洋美術史の体系を敷き写し、そのままあてはめて編纂した日本美術史、その”おていさい”に対して、私は憤りを感じるのだ。

そんなんでない、はるかに重厚で、泥くさく、生活的なもの。


ここには伝説的な日本的器用さはない。武骨である。


叩き潰され、押しつぶされ、それはまるで全然ないかのように、光の外に置かれながらも、なお厳然と、民族のレジスタンスとして叫び続けている。

たとえそれと、はっきり自覚されていなくても。暗く深い、もう一つの美の伝統であり、生命力である。


繰り返して言う。


たとえ現実は惨めでも、それをひっくり返して逞しい世界文化の前衛に衝突する、創造のポイントは至るところにあるはずだ。

私は火をつけたい。生きるアカシのために、自分を変え、世を変えて行く、そういう情熱によって。

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