門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。(ルカによる福音書 11章9節)
子どもが鈴木メソードを習いに行っている軽井沢教会にて、
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2月の聖句
『求めなさい。そうすれば与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。』
(ルカによる福音書 11章9節)
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山浦玄嗣さんの「イエスの言葉 ケセン語訳」文春新書(2011)は、聖書をケセン語(気仙地方、岩手県ー宮城県)で訳している本で、眼から何個もうろこが落ちたが、その本をふと思い出した。
聖書で「祈る=願う」と訳すされる「プロセウコマイ(proseuchomai)」は、「神さまの声に心の耳を澄ます」と訳すべきでは、と山浦さんはおっしゃっていました。
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「神さまに全幅の信頼を置きつつ、自分の使命について神さまのお声を聞きたいという思い(プロセウコマイすること)で乞い求める(デオマイする)なら、それはすべて必ずかなう」
という意味であり、これこそが人間が神さまに対してとるべきもっともふさわしい態度なのだと、聖書は教えているのです。
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神さま、私は神さまを深く信頼もうしあげております。
わたしは神さまのお役に立ちたいのです。
どうぞ、その道をお示しください。
神さまは必ずこの願いをお聞きとどけくださいます!
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神社も「祈る=願う」というよりは、自分の使命を与えてくれるかみさまの声に心の耳を澄ます聖なる時間。そこで聞くカミの声は、誰の心にも吹いている風(プネウマ)として感じられるもの。
自分のプネウマを感じると言う事は、息も、風も、呼吸も、命も、心も、魂も、すべてを同時に感じるということ。
そうして心のドアをノックして、ノックして、ノックし続けると(knockではなく、keep on knocking)、いづれその扉が開かれるのでしょう。
前書によると、「聖書の主張」とは、
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「この世界は神さまがそこに住むものを幸せにするためにお造りになった舞台である。
あらゆるものはその本来の姿においてよいものであり、すばらしいものである。
神さまのお造りになったものをこよなく愛し、かれらがまことの幸せの中で喜ぶことをこのうえなく喜ぶ。
人間が幸せになることこそ神さまをお喜ばせする道であり、人間が造られた目的なのだ」
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と書かれています。
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初めには言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、
言によらずに成ったものは
何一つなかった。
言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。
(新共同訳)
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初めに在ったのァ
神さまの思いだった。
思いが神さまの胸に在った。
その思いごそァ神さまそのもの。
初めの初めに神さまの
胸の内に在ったもの。
神さまの
思いが凝(こご)って
あらゆる者ァ生まれ、
それ無しに
生まれだ者ァ一づもねァ。
神さまの思いにァ
あらゆるものォ生がす力ァ有って、
それァ又、
生ぎる喜びィ人の世に
輝がす光だった。
光ァ人の世の
闇ィ照らしてだったのに、
闇に住む人ァその事に
気ァ付かねァでだったんだ。
(ケセン語訳/ヨハネ一・一~五)
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